磁力の強い言葉というのがあって、例えば、「人生」というのがそうだ。
この言葉を持ち出しておけば、何となく、真摯に、深そうに見える。
よくあるパターンに、「人生は○○だ」というのがある。「○○」のところにはテキトーに単語を入れればよい。
テキトーに入れればよい、といっても、今イチなものもある。例えば、
人生は年金次第だ。
というのは、まあ、確かにそういう面もあるかもしれないが、何となく、ユメもロマンもアリマシェン、という気分になってくる。
「○○」に入れるものは意外なもの、一般には人生とあまり関係ないと思われているものであったほうがよい。
人生は紙コップだ。
と言ってしまえば、これは言ってしまったもん勝ちなのである。後は、負けないように、あまりくどくど説明しなければオッケーだ。
ポン、と放り出しておけば、受け手の側で勝手に想像力を働かしてくれる。
「使い捨てにされるということかな?」、「くしゃっと簡単につぶれてしまうということかな?」、「単価が安いということかな?」、「何を注がれるか、わからないということかな?」などと、考えはいくつも浮かび、それが広がりになるのだ。
言い出したほうは、単に目の前に紙コップがあっただけのことなのかもしれないが。
ただし、意外なもの、一般には人生とあまり関係ないと思われているものだとしても、こういうのは、よくない。
人生はグリーンのビラビラだ。
「グリーンのビラビラ」とは、寿司の出前やコンビニに入っている、あの草を模した緑色のビニールのことだ(詳しくは、id:yinamoto:20050412を参照してください)。
あなたがグリーンのビラビラを作ったり販売したりしている会社に勤めていない限り、確かにグリーンのビラビラは人生とあまり関係ない。というか、まったく関係ない。
しかし、グリーンのビラビラ自体が、普通は何を指すのかわからないので、これはやっぱり、ダメである。
逆に、「人生は○○じゃない」という言い方も、深げに聞こえる。
人生は紙コップじゃない。
否定しているだけに、「人生は紙コップだ。」よりさらに強く響く。何かこう、言った人間の意志のようなものが、言葉により多く込められるからだと思う。
これはもう、いくらでも作れる。
人生は2時間で終わる映画じゃない。
人生はCDじゃない。
人生はフランス料理のフルコースじゃない。
人生はサッカーじゃない。
人生は洗濯機の全自動コースじゃない。
人生は階段じゃない。
人生はショーじゃない。
もちろん、本当に「人生は紙コップじゃない」。
なぜなら、人生とは人が生きていくことだからだ。