水滸伝の語り口

完訳 水滸伝〈1〉 (岩波文庫)

完訳 水滸伝〈1〉 (岩波文庫)

 水滸伝を読み始めた。

 岩波文庫の「完訳 水滸伝」の第一巻は前から持っていたのだが、いつか読もうと思いながらそのままにしていた。時折開いては、いかした挿絵を見て、楽しむばかりだった(昔に書いたことがある。id:yinamoto:20080530)。

 読んでみると、これがよいのだわさ。

 何がよいかというと、文章である。講釈のような語り口で――というより、水滸伝は元々中国の寄席で講釈として語りつがれてきたものを文章化したものらしい。岩波文庫版も講釈的な訳文を心がけている。こんな調子だ。

 肉屋笑って、「こりゃ、わしをわざわざなぶりに来られたのだな。」
 魯達、それを聞くやいなや、ぱっと跳び上がり、かの二包みの微塵切りを手に持ったまま、目をむき出して肉屋をにらみ、
「そうよ、あっしはわざわざきさまをなぶるつもりなのだ。」
 と、二包みの微塵切りをまっこうから叩きつければ、いやはや一陣の肉の雨が降ったよう。肉屋、大いに腹を立て、二すじの怒り足の裏からまっ直ぐ頭のてっぺんまで立ち昇り、胸さきのかの一本の無明の業火、めらめらとおし止めがたく、まな板の上から出刃包丁をひったくると、ぽんと下へ跳びおりました。

(「第三回 史大郎 夜わに華陰県を走れ 魯提轄 拳もて鎮関西を打つ」より)

 魯智深(魯達は魯智深の出家前の名前)が自らを「あっし」と呼ぶところなんぞ、痺れるねえ。

 もちろん、中国語の講釈の語り口の味わいは、日本語のそれとはまた違ったものなのだろう。日本語訳を読むということは、イギリス人が英語に訳した落語を聞くようなものだろうと思う。それでも、語り言葉調の日本語で読むほうが、ひらたい文章語で読むより楽しいし、また、話にもよくなじむように感じる。

 水滸伝を読むのは何度目だろうか。ガキの時分に1、2度読んでハマった記憶がある。大人になってから日本人作家が水滸伝を元に作った小説を何度か読み、吉川英治の「水滸伝」も読んだ。吉川英治水滸伝」も結構面白いが、残念ながら、原典の語り口調の味わい、楽しさには及ばないように思う。平たい文章語だと、どうしても「文学」「小説」のクセ、しかつめらしさが染み込んでしまうのかもしれない。落語を小説にすると、全然違うものになってしまうようなものだろう。

 関係ないが、魯智深、ラブリーだぜ。