あなたにとって何ですか?

 テレビのドキュメンタリー番組や雑誌のインタビューなどでしばしば見かける質問に「あなたにとって◯◯とは何ですか?」というものがある。

 これがおれには昔から解せない。質問するほうも質問するほうだが、答えるほうもよく答えられるものだと思う。

 たとえば、おれが「あなたにとってお金とは何ですか?」と問われたら、え?、とおそらく一瞬凍るだろう。今まで一度も考えたことがないから。「あなたにとって仕事とは何ですか?」というのも困りそうだ。「生活の手段です」と答えれば、当たらずとも遠からずだろうが、さて、そう簡単に割り切れるものでもなさそうである。

 かといって、国語辞典を引くように、

「あなたにとって結婚とは何ですか?」

[名](スル)夫婦になること。「お見合いで結婚する」「結婚式」「結婚生活」→婚姻(こんいん)」

 では、いささか紋切り型にすぎるし、

「あなたにとって恋愛とは何ですか?」

「恋したり愛したりすることです」

 では、お互いに困ってしまうだろう。

 質問する側としてはていよく番組なり、インタビューなりを追われる手段なのだろうが、さてもさても、そう簡単に問いたり、答えたりしていいもんだろうか。

 たとえば、

「あなたにとってサイン・コサインとは何ですか?」

「あなたにとって源氏物語とは何ですか?」

「あなたにとって小林製薬とは何ですか?」

「あなたにとって太陽系とは何ですか?」

「あなたにとって王安石の新法とは何ですか?」

「あなたにとってお通夜とは何ですか?」

 いずれも答に窮しそうである。

 あなたにとって今このときって何ですか?

デジタル・ネイティブの衝撃

 五歳になるおれの甥は(おれが五歳という意味ではない)二、三歳の頃から親のスマホやお姉ちゃんたち(十歳ほど違う)のタブレットをおもちゃにして成長してきた。子供の頃からデジタル環境が整っている人々、いわゆるデジタル・ネイティブである。

 iPhoneにSiriという音声認識&発話システムがある。マイクに話しかけると用を足したり、返答したりしてくれる。甥はSiriの使い方を覚えてからボキャブラリーが爆発的に増え、母親(おれの妹)が何かで叱ると、「何をおっしゃっているのか、わかりません」と微妙な機械音口調で返すのだそうだ。また、妹が甥とSiriの会話を聞くともなしに聞いていると、甥が何を言ったのか、Siriに「親しき仲にも礼儀ありですよ」とたしなめられたこともあったという。

 こういう話をすると、「おれたちが子どもの頃は野っ原を走り回って、バッタの足を引きちぎったり、カエルの尻にストローを突っ込み、息を吹き込んで爆発させたものだが・・・」などと将来を憂う人が出てくる。しかし、おれはあんまり心配はしていない。人の本性、喜怒哀楽はそう変わるものではあるまい、と楽観視している。

 なお、甥にデジタル機器ではなく、紙の雑誌を渡すと、写真をどんなにスワイプしても切り替わらないので「あれ? あれ?」と不思議がるそうだ。

歴史をストーリーで語ること

 今を去ること三十年も前になるが、おれは大学時代、文化人類学というコースに所属していた。文化人類学の大きなテーマのひとつに神話があり、おれは自分でコースを選択しておきながら、「なんでこんな浮世離れしたことを研究するのかなー」などと鼻くそをほじっていた。

 今になってみると、ああいう神話研究は現代社会にもいろいろ示唆を与えるものだったんだろうなー、と思う。ただ、鼻くそをほじっていたため、どういうふうに示唆を与えるのかまでは話せない。遺憾なことである。

 ちょっと話がずれるが、歴史はしばしばストーリーとして語られる。たとえば、「戦国時代に織田信長という英傑が現れた。合理主義に基づいて数々のイノベーティブな施策・戦術を編み出し、日本の覇権をほとんど手にしていたが、明智光秀という保守的な文人武将に謀反を起こされ、本能寺の炎の中に倒れた」とか、「19世紀半ば、欧米の帝国主義が日本にまで達した。組織的に金属疲労を起こしていた幕府はこれにうまく対応できなかった。危機意識を持つ下級武士の運動によって西日本の雄藩が立ち上がり、幕府を駆逐して、明治日本が生まれた」とか、なんとかかんとか。

 ストーリーというのは大変に便利なもので、まず面白い。そして、おそらく神話伝説がそうであるように、ディテールの中にさまざまな価値観を封じ込めることができる(たとえば、現代に流布している坂本龍馬の伝説には「若さと夢と行動は素晴らしい」という価値観が封じ込まれている)。そして、物事をある種の実感をもって理解させる。

 一方で、ストーリーは比較的シンプルな内容しか語れない。話の焦点もごく一部に当てられるだけである。焦点の当てられなかった部分は、本当は重要であっても、語られない=なかったも同然、となってしまう。そして、最大の問題は、ストーリーが面白ければ面白いほど広まってしまい、さまざまなバリエーションを生みながら史実とは無関係な方向へ、より「面白い」方向へ、と変化していくことだ。

 NHK大河ドラマが典型で、あれは史実という観点からすると、ほとんど無関係というか、でたらめである。しかし、多くの人が史実とストーリーをごっちゃにしたまま、より面白いもの、新しいバリエーションを求めるものだから、どんどんどんどん話が拡大再生産、というか、拡大変形生産されていってしまう(たとえば、忠臣蔵のさまざまなバリエーションを比べてみればよい)。そして、いつのまにか、既定の事実のように思われてしまう。

 おれは歴史のストーリー化はこれからいっそう害をなすんじゃないかと危惧している。国際的に人がどんどん行き来し、入り混じっていくなかで、社会それぞれで育ってきたストーリーがぶつかり合い、摩擦を起こしそうだ。お互いに出処と価値観が別々のストーリーをぶつけたって、なかなかほどよいストーリーはできあがらないだろう(なぜならあまり面白いものにならないから)。また、いろんなルーツを持つ人はどのストーリーを信じればよいのだろうか。

 ストーリーはストーリー、史実は史実(講談は講談、事実は事実)と切り分けられればいいのだが、実際にはストーリーが史実を動かしてしまうところもあるから、むつかしい。

実家

 ふと気になった。日常会話でごく普通に使っているんだが、日本語では親の住む家のことを「実家」と呼ぶ。文字通りに捉えれば「実の家」であって、それでは実家に対して自分が今住んでいるところは「仮家」なのだろうか。

 おれの場合、富山で生まれ育って、数年前に親が京都に引っ越した。今、おれのいる東京の家のほうが住んでいる期間は長いのだが、それでも京都の親の家を「実家」と呼ぶ。してみれば、親の家を「本当の家」、自分の家を「仮の家」というふうにとらえるのかというと、必ずしもそうではないようだ。

 きちんと調べたわけではないが、自分の家がたとえば東京にあって、親の家も東京にある場合には実家とはあまり呼ばないような気がする。同じ地域に自分も親もいれば、実家という言い方をしないのだ、たぶん。

 ただ、これも場合によるのであって、同じ地域に住んでいても、「夫の実家」「妻の実家」という言い方はしそうで、「本来、自分が住むべき(住んでいた)場所」から出て家を形づくると、元いた場所を「実家」と呼ぶのかもしれない。

 あくまで仮説だが、「実家」という言い方は核家族化、ひとり暮らし化と関係していそうだ。昔は親の家を引き継いで住むケースが多く、別の家に住むとしても同じ地域に住むことが多かった。せいぜい、嫁入りや婿入りで別の家に住むようになったとき、親のいる家、つまり出てきた家を「実家」と呼んだ。それが、若い者が地方から都市に出ることが多くなり、昔の嫁入り、婿入りの「出た家」を転用して、親の家を「実家」と呼ぶようになった。とまあ、そんなところだろうか。

 まあ、あくまで例によって当てにならないおれの霊感によるものなのでちがっているかもしれないが、「実家」という言い方、社会のいろいろな変化や家族観の歴史もからんでなかなかに奥深いものがあるように思う。

 

牛乳と牛

 お米や野菜などで、生産者と消費者が直接つながる形がある。「どこそこの誰それ」が作ったお米、野菜と知ったうえで定期的に購入する。農家からのおたよりが来たり、時には購入者がその農家に遊びに行ったりすることもあるらしい。親戚が送ってくれるお米や野菜の拡大版みたいなものだろうか。食材だけでなく、どこか精神的なつながりを感じられるところがミソである。

 それでふと思いついたのだが、牛乳に、その乳を出した乳牛の名前を冠してはどうだろうか。牛乳パックそれぞれに、たとえば、「スミレの乳」「めぐみの乳」「銀子の乳」と刷るのだ。牛乳を飲むとき、「ああ、おれは今、岩手県花巻市に住むスミレさんの四つの乳腺から出た乳を飲んでおるのだなー」などとロマンチックな気分にひたれるだろう。

 まあ、現代の牛乳の大量生産方式では個体別に牛乳パックをつくるのは難しいかもしれないが、そこはそれ、IoTだか、ICタグだか、何かそういうものを利用すればいいだろう。知らんけど。

 同じ伝で、牛肉に個体名を冠することも考えられる。「太郎のリブロースステーキ」「ハナコのハンバーグ」「デビッド源五のバラ肉で作ったすき焼き」「しげみちゃんの舌のタン塩」などと、おそらく牛乳より個体認識はさせやすそうだが、いささか猟奇的に感じられるところが難である。

サマータイムを導入するくらいなら

 おれは世間の動きにうとくて、つい先日、2020年のオリンピックが東京で開催されることを知って腰を抜かしたくらいである。嘘である。

 そんな具合だから、サマータイム制の導入がここのところ話題になっていることはうすうすと聞いてはいるが、誰がどのくらい本気で考えているのかは知らない。まあ、昔からちょいちょいとは持ち上がって立ち消えになっている制度であって、おそらく今回も夏の暑さとともにフェイドアウトしていくのだろう。ちらりと漏れ聞くように、東京オリンピックのためというのなら、たかだか二週間の興行のために馬鹿馬鹿しい。

 どうしてもというのなら、サマータイム制よりシエスタを導入したほうがいいんじゃないかと思う。ご存知の通り、スペイン伝統の長い昼休みである(昼寝とは限らないそうだ)。今年の七月後半から八月前半は大変な暑さであったから、企業などで通常一時間の昼休みを二時間の昼休みにするのも悪くないと思う。在社時間が長くなるが、家に帰ってめいめいがエアコンを使うよりは会社でエアコンを使ったほうがエネルギー消費量もトータルでは少なくなるんではないか。例の興行も、一番暑い時間帯をぼうっと過ごして、午前と夕方以降に動いたほうがいいんじゃないかと思う。

 もっとも、我がニッポン民族はコマネズミのごとくセコ素早い民族であるからして、シエスタの二時間を我慢できるとは思えないが。

 サマータイムシエスタより、怠け者のおれとしてはスプリングタイム制を導入してもらいたいと思う。「春眠暁を覚えず」というように何せい、春の朝は眠たいから、一時間余計に眠らせてもらうのだ。これこそ、文化、風情というものだと思うが、セコ素早さを尊しとするこ真面目な人が多いから、無理だろうなあ。

恋のダイエット

 相変わらずダイエット業界方面は活発なようである。一発当てればかなり儲かるのであろう。

 おれにもひとつアイデアがある。昔から「身も細るような恋」という。この頃は恋というのは楽しいもの、ウレシハズカシなもの、という捉え方が多いようだが、どっこい、人間の本性はそう簡単に変わるものではないはずだ。惚れてしまって、それが思うにまかせぬなら、やはりつらいであろう。食も細れば身も細るであろう。

 おれのアイデアというのはこうだ。女性会員の皆様に、ぞっこんおれに惚れ込んでいただく。おれはわざとつれなくあしらうので、会員の皆様はつらい思いをするはずだ。食も細れば身も細る。恋をすれば、身づくろいのこまやかさか、はたまたホルモンでも関係するのか、女性はしばしばいっそう美しくなるから、一石二鳥だ。

 これで月会費1万円で会員を100人も集めてご覧。笑いが止まらないよ。

 問題は、どうやってぞっこんおれに惚れ込んでいただくか、だが、そこのところの思案がまだついていない。これをビジネス用語でデス・バレー(死の谷)という。違うか。