先日、第一京浜を自転車で走っていたら、あるハンコ屋の看板が目に入った。
看板が目に入ったといっても、おれの目が看板より巨大なわけではない。誰もそんなこと気にしなかったろうが、一応、断っておく。
看板はだいぶ古いらしく、ペンキが剥げかかっていた。いろんなハンコの種類が羅列してあって、その上にこう書いてあった。
ないものはない。
ウーム、とおれは唸った。名コピーではないか。
四十七年間生きているおれの経験からすると(ちょっと前のはやり言葉を使って「四十七年分のビッグデータを解析すると」とカッコつけてみてもよい)、たぶん、「うちの店にはどんな種類のハンコも置いてある」と言いたいのだろう。
しかし、読みようによっては、「ほしいと言われても、ないものはないんだから、しょうがないじゃないか。バカタレ」と開き直っているようにも受け取れる。例の、貸し借りの催促返答方面でよく使われる言い回しである。
ないものはない。あるのか。ないのか。どっちなんだ。
試しに、数学で言う対偶をとってみよう。
あるものはある。
だからどうした。
何かがあるというだけである。当たり前である。こう見てみると、「ないものはない。」という表現の不思議さ、言葉の曖昧さに乗っかって想像をふくらませる機微が素敵に思えてくる。
昔々、糸井重里さんが西武百貨店のために作ったコピー、「ほしいものがほしいわ。」の意味の重なりを思い出す。おれはそういう意味内容がふわっと浮いて一瞬ただようような感覚が好きである。ヨッパラう感覚にちょっと似ている。
もう少しいじってみよう。
ないものはある。
あるものはない。
何やら、仏教の奥義のようになってきた。ないという言葉の意味内容には何か不可思議なものがあるのかもしれないのであるのでははないよね。