ニュートンとリンゴ

 ニュートンが、木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則に思い至ったという話は有名だ。

 この話、どうやら作り話らしいのだが、実話をにおわせる傍証もあって、真相はよくわからないらしい。人口に膾炙しているということは、作り話であれ、実話であれ、何か人を惹きつける理由があるのだろう。

 ニュートンというと近代科学の父のような扱いを受けているが、おれはリンゴの話に少々不満がある。ニュートンが庭で安楽椅子か何かに揺られながら、リンゴが木から落ちるのを見たのは、まあよい。万有引力を発見したのもまたよい。しかし、科学が仮説と検証(実験)の往復によって成り立っているのであるならば、ニュートンはなぜ自ら木によじ登って、「Hypotheses non fingo !(我、仮説を立てず!)」と叫びながら、自分がリンゴと同じくまっさかさまに落ちるかどうか、実験しなかったのであろうか? それでこそ近代科学の父でなかろうか? ……というのはもちろん無理やりな間違いで、ニュートンが発見したのは重力ではなく、引力が天体(例えば、太陽と地球)の間にも、地球とリンゴの間にも作用するということなのデシタ。だからこそ「万有」引力と呼ばれているのデシタ。

 さて、リンゴである。あの話はなぜリンゴなのだろうか。桃やみかん、柿、栗、ココナツ、パパイヤ、マンゴーではなぜいけなかったのだろうか。

 直感的には、アダムとイブの失楽園の恨み、というものがニュートンの逸話にも作用しているように思う。科学というのは甚だ便利な成果を生むものではあるけれども、一方でどこか恐るべき知識というか、禁断の木の実を食らう畏れというものを人々が感じていて、その象徴としてリンゴが登場するんではなかろうか。「知ること」の魅惑と怖さとでも言うかな。

「プラムが木から落ちるのを見て、ニュートン万有引力の法則に思い至った」
よりやはり、
「リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートン万有引力の法則に思い至った」
のほうが印象的である。これはプラムでも桃でもみかんでもオレンジでもレモンでもざくろでもブドウでもドリアンでもキーウイでもいけなくて、リンゴでなくてはならない。印象的な逸話というのは、たいがい、そう思わせるに足る象徴的な道具立てを内に含んでいるように思う。

 なお、ニュートンとリンゴ話にはいろいろなバリエーションがあって、おれが好きなのはこれだ。
「リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートンは歯茎から血が出ました」