文章に縁のある人・縁のない人

文章の書き方サイト」を作るために、昨年の暮れから文章術にまつわる本をいろいろと読み始めた。今も惰性で読み続けている。

 清水幾太郎の「私の文章作法」を読んだら、こんな話が出てきた。

 良い文章を書ける見込みのある人、文章というものと縁のある人というのは、一体、どういう人なのでしょうか。それは、文字や言葉や文章に相当の好き嫌いのある人のことです。私たちは、日常、新聞や雑誌や書籍を読んでいます。いろいろな文字、いろいろな言葉、いろいろな文章が、毎日、私たちの眼に触れます。その中の或る文字、或る言葉、或る文章を大変に好きだと思い、反対に、その中の或る文字、或る言葉、或る文章を非常に厭だと感じるような人、そういう人は、立派な文章が書ける素質のある人だろうと思います。

 なるほどなあ、と思った。わたしの話をすると、もちろん立派な文章なぞ書けないけれども、文章を書くことでオアシをいただいており、文章に縁があるのだろうと思う。そうして、言葉や文章の好き嫌いは大変に激しい。好きな言葉や文章もあれば、自分では絶対に使わない、いっそ落とし紙とともに便所に流してやりたいと思う表記法や言い回しもある。

 文章ばかりではありません。その辺の食堂で粗末な豚カツを食べても、ホテルの食堂の高級な洋食を食べても、同じように美味しいと感じるような人、両者の区別が出来ないような人は、仕合せな人かも知れませんが、決して立派な料理人にはなれないでしょう。

 これまた、なるほど、である。またしてもわたしの話になってしまうが(毎度申し訳ない。自分が大好きなのである)、わたしはあまり食べ物の味に興味がない。さすがにまずいものは嫌だが、そこそこの味でだいたい満足できる。食べ物については、清水幾太郎の言う「仕合せな人」なのだろう。料理人になりたいと思ったことはない。

 これらの話、もちろん、他のジャンルにも言えることであって、例えば、わたしからすると随分くだらなく思える音楽を平気で聞いていられる人達がいる。この人達はいったいどうなっているのであろうか??? なぞと思うのだが、それはわたしが傲慢なのだろう。たぶん、そうした人達は仕合わせなのだ(ただし、音楽を作る側にはまわらないでほしいと思う)。

 文章の話に戻ると、文字や言葉、文章にさほど好き嫌いのない人も多いだろう。文章にあまり興味がないのであって、それは別に悪いことではない。清水幾太郎によれば、良い文章を書けるかどうかについては――。

みなさんは、文章に好き嫌いがあるかどうか、それを反省してみて下さい。好き嫌いがあれば、脈がありますが、なければ、まあ、あまり脈はありません。

 厳しい。が、おそらく、その通りだろう。

 ただ、問題は、文章にあまり興味のない人もしばしば仕事で文章を書かざるを得ないこと、そうして、その文章を我々が読まされることだ。

 文章に格別興味のない人は、味わいや微妙なニュアンスの違いなどは気にしなくていいから、せめて読みやすく、わかりやすく書くことに気をとめてほしいと思う。料理にたとえれば、おいしくなくてもよいから、腹をこわすようなものは出さないでくれ、というようなことかもしれない。

 ……というわけで、文章に格別興味がないけれども、仕事で文章を書かねばならぬ人は、とりあえず「文章の書き方サイト」でも見て、読みやすくわかりやすい文を書くようにしてください。と、とっさに宣伝を滑り込ませた。

→ 文章の書き方サイト

私の文章作法 (中公文庫)

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