桜を撮る

 昨日、出先で1時間ばかり時間があいたので、桜を見がてら散歩することにした。
 六本木だったので、芝の増上寺まで行って、戻ってこようと決めた。


 時々曇るけれども、なかなか天気のよい日で、ぼんやりしながら歩くのが心地よい。


 増上寺の脇の道の桜が七分咲きくらいだろうか、アーチを作るようにして、美しい。


 平日だけれども、それなりに人通りがあって、立ち止まってはデジカメや携帯で桜の写真を撮っている人が多い。


 わたしも経験があるけれども、“これは美しい”と思った風景を撮っても、写真で見ると、案外、つまらなかったりする。特に桜は難しい。
 上下前後左右180度、あるいは歩いてきた道々の景色や空気感があってこその、桜の美しさなのだろう。そういったものは写真ではなかなか表しにくい。


 写真を撮っている人達も、おそらく、後で「あれ?」と思うだろう。
 そういう経験を今までに何度もした人も多いだろうから、本当は桜の美しさを撮りたい、とも、さほど思っていないのかもしれない。


 それよりは、この美しいと感じた瞬間をとどめたい、という心の働きのほうが強いのではないか。


 和歌ならば、「桜の姿しばしとどめむ」といったところか。


 昔はカメラなぞなかったから、和歌や俳句にしていたのだろうか、まあ、よくわからないけれども、去りゆくこの一瞬を、別の形ではあれ、後でたどれるものにしたい、という気持ちはどこかにありそうだ。


 ああ、美しい日本の私。


 と思ったら、外国人も桜を撮っていた。

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「今日の嘘八百」


嘘六百九十八 赤ずきんの狼は、最期の瞬間、母狼の「よく噛んで食べなさい」という教育の本当の意味を理解したという。