凄いね。自分でタイトルに「人間」と書いて、笑ってしまった。
しかし、どうせ大した話にならないのはいつものことである。
人間は、人間について考えるのがやたらと好きだ。
たまにはミツユビナマケモノの条件とか、オオイヌノフグリをオオイヌノフグリたらしめているものは何かとか問うてみてもよいと思うのだが、そういうことは一部の専門家を除いてあまりやりたがらないようである。
日本人が、日本人について考えるのがやたらと好きなのと似ている。残念ながら、たいていは大ざっぱで、乱暴な話になりがちなところも似ている。
「人間は考える葦である」という有名な言葉がある。
ということは、「葦は考えない人間である」のだろうか、と思うのだが、そんなふうに言われると、葦のみなさんにもいろいろ言いたいことはあるかもしれない。
しかし、たいていの人間は「聞く耳持たぬ」ので、そういうことはあまり考えてあげないのである。昔からそうだが、人間というのは随分と身勝手な人々であり、葦のみなさんのほうは謙虚なのである。
えー、自分でも、何を言いたいのか、わからなくなってきました(正直言うと、眠いのだ)。
前から興味深く思っているのだが、人間が人間について考えるとき、しばしば、その時代の、最も注目を集めているテクノロジーを人間にあてはめて理解しようとする。
例えば、産業革命で蒸気機関がシュッポシュッポという時代には、人間を機械のように捉える考え方が流行ったらしい。
現代では、しばしば人間の、特に脳や心を、コンピュータにたとえることが多い。
「いやあ、おれのメモリー、容量がもういっぱいでさー」などと言い訳したりする。それは実際には記憶の能力が低いか、はなから覚える気がないかのどちらかなのだが。
「コンピュータにたとえると、脳というハードウェアに文化というOSがインストールされるわけです」なんていうたとえも、いかにもありそうだ。こう書いてみると、何となくわかったような気がするから恐ろしい(もちろん、脳というハードウェア云々はわたしが思いついたデタラメです)。
しかしねえ、我々はコンピュータをたとえにして、何を「わかった」つもりになっているのだろうか。そこんところが、どうもよくわからないのよね。
いつか、「人間とは何か」について、ほとんどの人が納得する完璧な答が出ることはあるのだろうか。
答が出てみたら、案外つまらないもので、がっかりしちゃったりして。
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「今日の嘘八百」
嘘五百一 人間が人間とは何かについて考えたがるのは、煎じ詰めれば、暇だからである。