照れ、という感情、現象はなかなか興味深くて、ありゃあ、何なのか、と思う。
別の言葉で言うと、きまりが悪い、はにかむ、気恥ずかしい、といったところだと思うが、単純に恥ずかしいというのとはまた違う。
例えば、道でいきなりすっ転んで恥ずかしい、というのは、照れとは違うだろう。コケて、頭をかきながら「いやあ、照れるなあ」なんて言うヤツがいたら、ちょっと変だ。
照れは、なかなかこう、ややこしい機微で生まれるようである。
まず、自意識――自分で自分を見る意識とか、自分がどう思われているかという心配がない人は、照れない。
尊敬している人や大好きな人に初めて会ったとき照れるのは、相手に自分がどう見られるか、普段より気になるからだろう。
じゃあ、相手にどう見られるか気になると、どうして照れるのか、気恥ずかしくなるのかというと、どうもよくわからない。
「都会人ならではの含羞」なんていう言い回しを聞くことがあるけれども、これは照れのことだ。
じゃあ、都会人ならよく照れるかというと、そうとも限らない。
あくまでわたしの一般的な印象だが、東京で生まれ育った人のほうが、大阪で生まれ育った人より照れるようである。
演芸でもそうで、大阪のお笑いのほうが照れずにズケズケ行くようだ。よく言われるコテコテの笑い、というやつで、わたしは時々、げんなりするときがある。
東京のほうが薄口、こざっぱりした笑いが多い気がする(最近は関西タイプの笑いが進出してきたのと、地方出身の芸人が増えて、そうでもなくなってきているようだが)。
先代(当代も5、6年前に亡くなったが)の桂三木助の落語を聴いていると、「ああ、照れる人の落語だなあ」と思う。ああいうのが典型的な江戸前の落語なのだと思う。
立川談志なんかも、毒舌、言いたい放題に見えて、ふっと照れるような瞬間がある。悪態をつくのは、しばしば照れ隠しのところもあると思う。
料理は関西が薄口、東京が濃い口なのと対照的だ。関係あるのか、ないのか。
何だか、散漫な話になってしまった。
最後に、季節はズレるが、一句。
快晴に頬赤らめててるてる坊主 竹蜻
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「今日の嘘八百」
嘘三百五十二 江戸っ子の新さんは照れながら亡くなりました。