県民性

 昨日に引き続き、「稲本喜則・故郷を思う」シリーズの第2弾である。


 わたしは富山県で生まれ育った。
 昨日の日記で富山の名前を出さなかったのは、どこだかわからない人も多かろうと思ったからで、東京に来てから「えーっと、富山って、金沢県富山市だっけ?」と真顔で訊かれたことがある。
「ぱっと言ってすぐに思い出せない県」第2位に入ったこともあるそうである。


 それぞれの県には、県民性というものがあると言われる。また、実際、あるのだろう。


 しかし、わたしはあまりそういうものを云々するのが好きではない。


 ひとつには、非常に単純な議論となり、まるでその県に住む人全てがそうだ、というふうに誤解しがちだからだ。


 そんなわけはない。
 例えば、鹿児島県民だからといって、全員が全員「チェストーッ」とわめきながら木に打ちかかるわけでもなかろうし、和歌山県民だからといって、全員が全員カレーに毒を入れたがるわけでもなかろう。


 あるいは、安易な印象だけで偏見・先入観が生まれることもあり、そこらへんのいい加減さと危うさは○○人論にも通じるものがある。