「道」という字を付けると、何やら奥深げなふうに感じられる。


 たとえば、今、「サラリーマン道」とGoogleで検索すると、584件が引っかかった。まあ、大半が冗談半分なのだろうけれども。


「サラリーマン道」の冗談度は、仮に「大半」を8割とすると、冗談「半分」は1/2だから、


「サラリーマン道」の冗談度=0.8×1/2=0.4


 となる。


 少年少女よ。算数を、こんな無駄なことにしか使えない大人になってはいけない。


 さて、相変わらず当てずっぽうで書くのだが、「〜道」という言い方には、元々、必ずしも極めるとか、深めるという印象はなかったのではないか。


 広辞苑で引くと、こう書いてある。


やりかた。専門の学問・技芸。「道場・道具・道楽・茶道」


 茶道も、ま、やりかた、技芸ではある。


 じゃあ、「道」がどうして奥深げに感じられるかというと、音読みを訓読みに変えるからじゃないかと思う。


茶の道。


 と、こう読んだ途端、奥の細道や、東山怪異、じゃなかった、東山魁夷なぞを思い浮かべつつ、「先を行くのであるなあ」、「奥へ奥へと進んでいくのであるなあ」、「行った先には、今の私ではわからない世界が広がっているのであろうなあ」、と、「なあ」的心境のうちに「深い、深い」と勝手に感銘を受けてしまうのであろう。


 こんな小話がある。


 盗賊の一団に若い男がいた。ところが、こいつが吉原の女郎に入れ込んでしまって、いつもポーっとしている。
 盗みに入っても、心ここにあらずだから、ドジを踏む。そのせいで全員危うくお縄になりかけたが、何とか逃げ出せた。
 盗賊の頭領が若い男を呼んで、こんこんと説教した。最後に、
「どうだ。盗っ人を辞めるか、女郎買いを辞めるか。おまえが抜けるといっても、おれは止めはしない。自分で決めろ。さ、どうする」
 若い男は、頭領の厳しい中にも温かみのある言葉に涙を流し、
「へい。女郎買いは、今日を限りにすっぱり辞めやす」
「本当か。きっと心を入れ替えるか」
「本当です。これからは、真人間となって、ひたすら悪の道に精進し〜」


「道」という字、言葉には、奥深さを付け加えたり、強めたりする働きがある。いわば、奥深さブースターだ。
「野球道」とか、「ロック道」とかね。


 しかし、道には交差点もあれば、行き止まりもある。
 単に周回して戻って来ちゃったり、パパとママが目玉焼きが焼きすぎだじゃあ自分で焼けばうるせえおれは忙しいんだ毎日残業なんだとくだらない夫婦げんかをしている花子ちゃんのうちにつきあたったり。


 そんなものよ。


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「今日の嘘八百」


嘘三十二 飛行機は本当は意地で飛んでいる。