武士道

 現代に「武士道」というものを持ち出す人がいて、人によっては「日本の誇り」のように言う。


 端緒は、外国に行って、ブシドーがどうたらこうたらと自慢してきた元・五千円札の人であろうか。


 まあ、基本的には各人勝手にやればいいのだが、どうもあまり手放しでヨロコんでいる人を見ると、からかいたくもなる。こちらも勝手にやらせていただく。


 第二次世界大戦前のチェコの作家、カレル・チャペック(ロボットという言葉を作った人として有名)がこんなことを書いていて、わたしは気に入っている。
 かなり長い引用になるので、何だったら、先にトイレに行っておいてください。


 わが国では好んで次のように言われる――「われわれ、フスの、ジシュカの、スメタナの民族――われわれ、コメニウスの民族」。しかしドイツ人たちも同じように言っている――「われわれ、ゲーテの、カントの、ビスマルクの、その他誰やそれやの民族」。「われわれ、ゲーテの民族」だって! きみは、自分がゲーテのような人だと書いたり言ったりするのか? きみはかれとなにか似た所を持っているか、きみは賢明で人間的なのか、フランスを愛しているか、詩を書いているか、そして世界に模範を与えているか? 「われわれ、シラーの民族」だって! だが、きみはシラーと共に「暴政に対抗し」声を大にして叫ぶだろうか、暴君にたいして「陛下、思想の自由をお与え下さい」と要求するだろうか? 「われわれ、カントの民族」だって! だがきみは、カントのように、人間の中に目的を見て、手段はけっして見ないでいるだろうか? ゲーテはいた、カントはいた、そしてさらにわたしの知らぬ他の人たちもいた。だが、それがきみの利用できる美徳であり利点であって、きみはそれによってなにか偉大になり、なにかよりよきものになっているだろうか? きみは文化的で偉大で、人間的で世界的だろうか、きみ以前に誰かがそのようだったからという理由で?
(「われわれ、誰かの民族」。「未来からの手紙」〔飯島周編訳、平凡社ライブラリー〕所収)


 武士道がどうのこうの、と自慢げに語る人にも、同じようなことを感じる。


 まあ、簡単に言えば、虎の威を借る狐ということなのだが、世の中、狐がたくさんいすぎると思うのである。
 そう言う私も狐だが、みっともないので、虎の威を借りてはいない。


 今、ちょっとチャペックの威を借りたけど。


 面目ない。切腹いたす。ヤッ!


 お。腸とか、何かいろいろ出てきた。