華2

 ここ2、3日、華ということについて、ぼんやりと考えている。


 例えば、昨日触れたロッド・ステュワート、一昨日触れた長嶋茂雄には、ともに華がある。


 華のある人、ない人の違いは何か、と考えていて、屈託のあるなしじゃないか、と思い至った。


 華のある人は、たいてい、屈託がない。
 いや、本人なりの屈託はあるのかもしれないが、少なくとも表には出さない、あるいは出ない。
 そういうことではないか。


 ビートルズで考えてみよう。


 ジョン・レノンには屈託がある。
 そのせいか、初期のビートルズジョン・レノンは地味に見えた。
 後期や、解散以後のジョン・レノンも、カリスマ性はあったとしても、登場すればまわりがパッと明るくなる、という存在ではなかった(わたしはほとんど同時代体験していないので、あくまで記録映像を見ての印象だが)。


 ポール・マッカートニーからは、屈託があまり感じられない。華はあるけれども、もの凄く華がある、というわけではない。
 ちょっと宇宙人的なところがあって、できたばかりの「華=屈託がない」説を少々怪しくする。ポール、あまり困らせないでくれ。


 ジョージ・ハリスンは、屈託しまくっている。ジョン・レノンポール・マッカートニーのような、「ま、こんなとこだろ」と簡単に名曲を作ってしまう人と一緒にいれば、そりゃあ、屈託するだろう。
 屈託しすぎて、一時はインド方面に向かってしまった。たぶん、自分なりの個性やバンド内での立ち位置がほしかったのだろう。
 そうして、ジョージ・ハリスンには華がない。うん、いいぞ、いいぞ。


 で、だ。あとひとりいますね。


 そう、リンゴ・スター
 見事なくらいに屈託がなく、華がある。
 ミュージシャンとしてみれば平々凡々、せいぜいCといったところだが、チャリティ・コンサートか何かで登場するだけで、「お、リンゴ」と目を引く。


 リンゴについては、あのメンバーの中にいてコンプレックスを感じなかったのか、と思うが、どこかで達観しちゃったのか、それとも、ある種のパーなのか(ここで言う「パー」とは褒め言葉に近い)。


 長嶋方面で考えてみよう。


 王貞治には、屈託がある。
 大スター、長嶋茂雄が常に四番に座っていたのだから、それはそうだろう。フリーバッティングでは自分のほうが優れていても、試合になれば四番は長嶋なのだ。
 おまけに引退してからは、巨人の円から半ば追い出されるようにして福岡に行った。あくまで想像だが、今、王は巨人、あるいは中央的なものに対して復讐心のようなものを持っているのではないか。


 筆がそれた。
 王も、おそらく、生で見れば、「おお」と感じさせるだろう(くっだらない駄洒落だ)。
 しかし、その「おお」は、「これがあの人」という「おお」であり、もっと言えば、記録の偉大さと、それを成し遂げた人の存在感によるものだ。華ではない。


 村山実
 現役時代をわたしは知らないが、「長嶋を生涯のライバルと見なしてきた」なんていう話をよく聞く。
 タイガースの監督を務めていた頃の村山は、昔の落語でいう、屈託の取締り。屈託の国から屈託を広めに来たような人に見えた。
 長嶋に打たれた天覧試合でのサヨナラ・ホームランを、「あれはファールだ」と死ぬまで主張していたそうだ。あの世でも屈託しているかもしれない。


 現役時代、マウンドに立つ村山には華があったのだろうか(なお、スターであることと、華があることは違う)。
 わたしの覚えている監督としての村山は華のない人で、「こういう人のもとではあまりプレーしたくないな」と感じさせた。


 他に華のある人といえば、誰だろう。
 松岡修造や、安藤美姫には華がある。そうして、屈託がない。


 聞くところによると、安藤美姫の日常会話はかなり長嶋的であるらしい。
 一度、長嶋、松岡修造、安藤美姫の3人で鼎談をやらせてみたい。もの凄いインスピレーションの飛び合いになって、まわりはついていけないんじゃないか。


 長くなった。
 反証として、華があって、屈託のある人がいたら、教えていただきたい(ああ、そういえば、チャップリンは屈託があるのに、華があるな)。


▲一番上の日記へ