消化不良

 今日、書くことは、少々シモがかりそうなので、その手の話が苦手な方はパスしていただきたい。


 人間というのは、しょせん、下水管に目鼻、という話がある。確かにその通りだ。そうして、問題は、しばしばこの下水管が詰まったり、逆流したり、暴れ出したりすることにある。


 私はもっぱら暴れ出すほうの下水管を持っていて、下水管のくせに、ゴムか何かでできているらしい。
 ひどいときには、いやもう、大変である。腹をかっさばいたら、蛇口を全開にしたホースのようにのたくり回るんじゃないかと思う。ひどい暴れようだ。


 昨晩、食べ過ぎた。


 世の中には、食べ物を残すと、もったいない、とする考え方がある。特に年配の人にそう考える人は多い。
 昔からの道徳や、戦中・戦後のひもじい体験も影響しているのだろう。


 私の父もそう考えるひとりで、たまに飯を食いに行って料理を頼みすぎると、無理してでも食べようとする。
「やめとけば」と言うのだが、「もったいない」と言って、意地で食べる。そうして、後で腹を壊してしまうようだ。


 私も、父にはそんなことを言いながら、残すのに抵抗を感じるときがある。
 居酒屋なんかで複数人で注文すると、残してもどうも思わない。
 しかし、定食などで、ひとりひとりにあてがい扶持となると、残すのが憚られる。作った人に申し訳ないふうに思うのだ。


 飯屋にまで気を遣う、美しい日本の私。


 ただし、「気の遣い方が大いに間違っている」とは、まわりからよく指摘されるところである。自分ではよくわからないのだが、気遣いの方向音痴であるらしい。


 話がそれた。
 どういうわけか、丼物となると、なお、残したくなくなる。
「もったいない」、「申し訳ない」という気持ちのほかに、「悔しい」という気持ちも混じるのだ。「ボギー! 俺も男だ」といったところだろうか。


 そんなわけで、昨晩、天丼を頼んだら、思いもよらず大量だった。食べている途中、すでに胃のほうから黄信号が出ていたのだが、「拙者にも、意地がござる」と無理に食べきった。


 家に帰ってから、胃に赤信号が出た。しばらく経ってから、今度は腸方面から、ちらほら抗議の声が聞こえてきた。
 「うわ。こりゃ、来たかな」と思っていたら、あっという間に激しい抗議活動が始まった。


 下腹部の激痛と下痢。往生した。


 トイレに座ってウーウー唸りながら、「人はなぜ生きるのか?」と、根元的な問いを投げかけたくなった。


 しかし、下水管のほうは、もちろん、そんな形而上的な問題に興味はない。シモというくらいだから、徹頭徹尾、形而下の問題にこだわるのだ。マルクスと下水管の意外な共通点である(もちろん、読んだことはない。風の便りにそう聞いただけだ)。


 ようやく治まったと思ったら、夜中、寝ている最中にまた抗議活動を再開しやがった。
 眠気と、痛みと、なんだかわからない気分の悪さで、参った。シュプレヒコールは、せめて、起きている間にやってもらいたい――といっても、下水管は24時間体制だから、向こうにも言い分があるのだろうが。


 八つ当たりで書くのだが、食べ物を残すと「もったいない」というのは、確かにそうだ。
 しかし、「もったいない」といって食べ過ぎて、その食べ物がもの凄い勢いで茶褐色の半液状と化して出てきた場合、どうなのか。
 栄養としてほとんど吸収されていないから、摘まれた生命は、ほとんど私の生命維持に役立っていない。むしろ、私の生命を弱らせる。


 そこんとこ、どうなんでしょうか、お釈迦様? 大盛りを頼んだわけでもないのに、天丼が思いもよらず大量だった場合には? 誰が悪いのでしょう? 私は天丼の量を知らなかったのだし、飯屋にも悪気はなかったのですが? それが因縁というものなのでしょうか?


 トイレの水を流し、敗北感を覚えながら、私は「ああ、もったいない」とつぶやいたのであった。


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