デ・ニーロごっこ

 現代の名優というと、たぶん、アメリカではロバート・デ・ニーロがそのひとりとして挙げられるのだろう。


 確かに、画面に彼がいるだけで、強い存在感がある。「お、デ・ニーロだ」と目が吸いつけられる。
 その存在感というのは、「ブラック・レイン」にヤクザとしてワンシーンだけ登場したガッツ石松の、「お、ガッツだ」という目の吸いつけられ方に似ている。
 「デ・ニーロとガッツを一緒にするな!」という意見もあるだろうが、私はそうは思わない。ガッツ石松は凄い人だ。


 デ・ニーロは、まあ、名優なのだろうけど、じゃあ、演技が上手いのかというと、よくわからない。
 いや、もちろん、下手ではなかろうけど、独特の型というか、くさみのようなものがある。チーズや納豆、クサヤと同じで、それが味であり、好きな人にはたまらないのかもしれない。


 「自然な演技」(とは何かと問われるとよくわからないが)はやらないのか、できないのか。案外、不器用な人のようにも思う。


 ……などと、ロバート・デ・ニーロ論を書きたいわけではなかった。
 一日、デ・ニーロになって暮らしてみたら、どうなるか。「デ・ニーロごっこ」というものをやってみようか、と考えたのである。
 先日、デ・ニーロのモノマネをするお笑いコンビがテレビに出ていて、思いついた。


 まず、「デ・ニーロ顔」というものがある。
 簡単だ。眉根を寄せる。目を細める。小首を傾げる。これだけでよい。


 デ・ニーロ顔をしながら微笑めば、これは「デ・ニーロ・スマイル」となる。苦笑いか、苦渋か、直後の暴力をうっすら予感させる笑顔かはわからないが、ともあれ、複雑な感情を相手に読みとらせることができる。


 口元は、微笑んでも、一文字にしていてもかまわないが、閉じていなければならない。これは鉄則である。


 後は、両手をややオーバーに広げるだけ。これを一日続けると、どうなるか。


 コンビニで宅配便を出そうとしたら、店員がもたもたしている。デ・ニーロ顔をする。こちらの不快そうな様子に気づいた店員が「すみません」と謝ってくる。デ・ニーロ・スマイルに変わる。
 全ての手続きを終え、料金を払う段になって、財布を忘れてきたことに気づく。手を広げる。


 電車に乗ったら、たまたま知り合いに会った。大きく、直線的に後ろにのけぞる。このとき、手はコートのポケットに突っ込んでいなければならない。また、のけぞるスピードは、速ければ速いほど、よい。


 自動販売機に小銭を入れる。お金が戻ってくる。デ・ニーロ・スマイルで手を広げる。


 ラーメンを頼んだら、中に髪の毛が入っていた。店員を呼び、目でラーメンを示し、デ・ニーロ・スマイルになる。直後、突然、立ち上がり、ラーメンを丼ごと、床に叩きつける。さっと店を出る。


 面白いが、実際にやるとなると大変そうである。
 実は先ほどからこの文章を書きながら、何度もデ・ニーロ顔とデ・ニーロ・スマイルをやってみている。えらく疲れる。一日は持ちそうにない。


 志ん朝ごっこというのも考えている。これも簡単で、話をするとき、「んん〜!?」と軽く語尾を上げる、あの独特の口調を、時々、混ぜるのだ。
 こっちのほうが楽かもしれない。志ん朝を知らない人には、「どうしちゃったんだ、この人?」と思われるだけだろうけど。


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