人の縁

 一昨日の日記 id:yinamoto:20041111 を読み返すと、どうやら私は生きていくうえでの根本を人とのつながりに置いているらしい。


 ハッハッハ。いきなりそんなことを言われても困るだろう。私も困っている。まあ、聞いておくんない。


 ドラマなんかで時々、病院で人が死にかかっていて、医者が家族に「後は本人の生きたいという意志しだいです」なんてことを言う。
 でもって、妻やら恋人やら不倫相手やら妾やら二号さんやら三号さんやら四号さんやら五号さんやら愛人二十八号やらが病身の男にとりすがり、手を握って、「頑張って」と目を涙でキラキラさせながら言うのである。
 ここんところはたいてい女性の顔がアップになるというふうに決まっている。


 私だったら、妻やら恋人やら不倫相手やら妾やら二号さんやら三号さんやら四号さんやら五号さんやら愛人二十八号やらに手を握られた瞬間、その数のあまりの多さに面倒くさくなって、生きたいという意志を一気に失ってしまいそうである。


 いや、そんなことはどうでもいい。


 まあ、そういう場合は、せっかく涙キラキラ・どアップの人がいてくれるのだから、そーっとでも息をしておいたほうがいいと思うのだ。


 関係ないが、実際に医者が「後は本人の生きたいという意志しだいです」なんてセリフ、言うことあるのかね。科学技術の使い手なのに。だいたい、危篤状態で意志なんてあるのか。


 いや、それもまたどうでもいいことだ。どうも話があちこち跳びはねて、捕まえるのに苦労する。


 これは私個人の規範であって、人に強制できるものではないのだけれども、「思うてくれる人がいる以上、人は簡単に死んではいかんのココロよ」と思う。規範というとどうしても強制になるから、意見ということにしておこうか。


 ついでに自殺については、「後々、迷惑する人が出るような手段はやめなさいよ」と思う。まあ、やっぱりね、ビルの上のほうから人が落ちてきたり(危ないでしょ)、電車が遅れたり、「うえええ、気色悪う」とゲロ吐きそうになりながら死体の始末をしなければいけない人がいたりするのは、迷惑だと思うのココロなのです。


 生きていく根本を神に置く人もいれば、転がり落ちる岩を坂の上へ運んではまた転がり落ちる、それが人間の尊い営みだというシーシュポスの人もいるだろう。あるいは、「腹、減るの、嫌だから」という人もいるだろうし、転がり落ちる岩を坂の上へ運んでは、自分が坂を転がり落ちて喜んでいるバカもいるかもしれない。


 私の場合は、他人との情的なつながり、というのが大きいらしい。なぜそうなったのかはわからない。


 私は仏教の熱心な信者ではないけれども、仏教で言う「人との縁」という考え方は、割とすんなり受け入れられる。いや、仏教というより、日本的仏教の考え方なのかな。そこらへんはよくわからない。


 物事への基本姿勢というのは、日々、目にするもの、耳にするものから、なーんとなくできてくるのだろうか。近目で見れば個人の考え方の育ち方ということになるのだろうし、遠目に見れば文化ということなのかもしれない。
 日本人に割と馴染んでいる考え方を、自分もだんだんするようになっているのが、面白いと思うのココロの秋なのです。


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