鯉は馬鹿ではないか

 鯉というのは昔から目出度い魚とされていて、絵の題材としてよく描かれてきた。特に滝登りは知られた画題で、あれは上昇→出世、という連想のほか、鯉が龍の門をくぐると龍と化す、という言い伝えのせいでもあるらしい。

 また、錦鯉の色鮮やかさも、鯉が特別視される理由のひとつだろう。昔、田中角栄の屋敷には錦鯉の泳ぐ池があって、鯉に餌やりをする姿がしばしば写真になった。新潟の農家から総理大臣にまでのしあがった田中角栄のイメージと、錦鯉の鮮やかさ、鯉の出世のイメージが重なって、写真の題材として象徴的だったのだと思う。

 しかし、現実の鯉はなかなかグロテスクである。何といっても、顔が気味悪い。

 

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Fabio Poggi [CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)]

 

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Sardaka [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

 

 はっきり言って、これは馬鹿の顔である。馬鹿でなければ、魯鈍である。

 鯉は悪食でもあって、口に入るものは何でも食べる。食欲旺盛で、おれの知り合いが池のへりから餌を撒いたところ、もっとくれ、もっとくれ、と大量の鯉がのたくりながら地面にあがってきたそうだ。なかなか恐怖である。

 こんなやつが出世の象徴でいいのであろうか、とも思うのだが、もしかすると出世するやつはなりふりかまわぬ、という含意があるのかもしれず、そうであるならば、馬鹿でも魯鈍でも貪欲ならば出世の道は開かれているのかもしれない。

 

 

別れの象徴

 映画などで別れのシーンというと、昔から鉄道がよく使われる。港(船)や空港(飛行機)も多い。

 あれは鉄道や船、飛行機だからいいのであって、タクシーだとおそらく今いちである。

 なぜかというと、鉄道、船、飛行機は路線が決まっていて、変わらない、すなわち人生の航路が決まっていて、もう変えられない。そういうイメージが鉄道や飛行機に重なるわけだ。タクシーだと行き先を言いさえすればたいがいどこでも行けるから自由、すなわちこれからどうにでもできそうな印象になってしまう。

 そういう意味では、船であってもレジャーボートは別れの象徴としてダメである。バスはどうだろう。いけるかな。小市民的なところがかえって哀愁かもしれない。

 自転車は論外である。駕籠は問題外の外である。

おもてなしとシャワートイレ

 シモの話で恐縮だが、大をした後の尻の処理の仕方には世界に大きくふたつの流儀がある。紙で拭く派と水で洗う派だ。

 紙で拭く派はトイレットペーパーが主だが、昔の日本では落とし紙と呼ばれるものを使っていた。おれもほんの小さい頃には薄いちり紙状のものを使った記憶がある。いつの頃からか、ロール状のトイレットペーパーが入るようになった。もしおれの家基準で考えるなら、日本でトイレットペーパーが普及したのは半世紀かそこらということになる(うちは地方だったので、大都市ではもっと早かったかもしれない)。欧米、東アジアはもっぱら紙で拭く派である。

 一方の水で洗う派はインドが代表的で、トイレットペーパーもないことはないが、頼むといかにも「不潔だ」という顔をして渡されると聞いたことがある(おれは行ったことがない)。もっぱら水を使って左手で洗うという。アラブ方面も水で洗う派で(乾燥地帯なのにどういうことだろうか)、ホテルのトイレには尻を洗うためのシャワーがあるらしい。

 水で洗う派が紙で拭く派を不潔に感じるのは何となくわかる。紙で拭いたってきちんと取れないだろう、きったねー。ということなんだろう。

 日本は紙で拭く派だが、シャワートイレ(いわゆるウォシュレット。ただし、ウォシュレットはTOTOの商標)が普及して、水で洗う派に転換しつつある。おれも大学の頃から家ではシャワートイレを使うようになって、考えようによっては尻の処理についてはインド〜アラブ派になったといえる。

 シャワートイレというのは実に偉大であって、発明は確か日本ではないが、改良・普及させたのは日本である。ノズルが出てきて、ピンポイントに尻の要点を狙う、しかも返り討ちに合わないというのはなかなか微妙な設計とコントロールが必要で、実によくできている。日本は武士道を誇るよりシャワートイレを誇ったほうがいいんではないか。

 おれはシャワートイレで尻を洗うたびに、「おもてなしだ!」と叫んでしまう。嘘である。

 しかし、偉大なはずのシャワートイレがなぜか世界ではあまり普及していないらしい。中国では一種のステータスとして喜ばれているという話もあるが、尻のOMOTENASHIは今いち理解されないのであろうか。

 

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新国立便座競技場。シャワートイレ機構をつけたくなる。

緊張感とリラックス

「緊張感をもって臨んでいただきたい」

 という言い回しがあって、社長や大臣などのエラい人の訓示によく出てくる。

 こういう言葉が出てくる背景は何なのだろうか。

 まずは緊張感をもって臨むと、よい結果が得られるという考え方があるのだろう。一方で、わざわざこういう訓示が出てくるということは、“人は放っておくと、ダラけてしまうものだ”という認識があるとも考えられる。イメージとしては、北斎漫画である。

 

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北斎漫画の緊張感のない人々。

 

 おれは住んだことがないので本当のところはわからないのだが、アメリカ方面では割にリラックスということを大事にしているようである。「Relax and enjoy yourself.」などという言い回しがあり、ということは、日本とは逆で、リラックスして楽しむとよい結果が出、人間、放っておくと緊張してガチガチになってしまうものだ、という認識があるのかもしれない。

 試験の前なんかにもこの認識の違いが出る。これから試験に向かう学生に、日本なら「頑張って」と声をかけるのは普通だろう。あるアメリカ人の学生に「頑張って」(にあたる英語。忘れてしまった)と言われたらどう思うか訊ねると、「言われなくてもこれまで頑張ってきたよ! これだけさんざんやってきたのに、これ以上を求めるの!? とカチンと来る」という答えが返ってきた。自分なら「Good luck!」と声をかけるというのだ。これまで頑張ってきたろうから、あとはうまくいくように幸運を! というわけだ。

 まあ、日本語の「頑張って」は文字通りの意味ではなくて、「あなたのこと、気にかけてますよ」くらいの意図の場合も多いのだが、ともあれ、日米で物事に向かう姿勢というか気の持ちようの捉え方は違うようだ。そういえば、「テンションあがる!」というのが日本語ではいい意味だが、アメリカでは緊張感が高まるというのはあまりよい捉え方をされなさそうである。日本は緊張感を好ましく捉える傾向があるのかもしれない。

 いざというとき、緊張感より集中力のほうが大事だと思うのだけどね、おれは。

「ちょっと」

 ここのところ気になっているのだが、仕事方面というか、あらたまった場で「ちょっと」という言葉が多用されているように思う。「ちょっといいですか」、「ちょっと思ったのですが」「ちょっとそういうふうに、ちょっと言いたい」などと、いろんな言葉にくっつく。時には「ちょっと大変」、「ちょっと非常に心配」、「ちょっと緊急」などと、どっちなんだ! と言いたくなる使い方がされたりする。最近の傾向なのか、昔から多用されているのだがおれが気づかなかっただけなのかは、わからない。

「ちょっと」をつけたくなる心理は何なのだろうか。

 日本のコミュニケーションには、言葉を弱めたがる傾向がある。「少しおかしい」とか、「やや強め」とか、その手の丸める言葉をよく使う。「ちょっと」もその類かもしれない。「白髪三千丈(約10km)」「千万人といえども我行かん」「悪事千里を走る」といった誇張の多い中国的表現とは対照的である(もっとも、おれは中国語ができないので、中国の生なコミュニケーションの実態は知らないのだが)。

 あるいは、これも日本のコミュニケーションの特徴だが、相手に対する遠慮やおそれのようなものが反映しているのかもしれない。「ちょっと」と言葉をやわらげることによって、人間同士の生なぶつかりあいをやわらげようとするのだ。「ちょっと」という言葉が家庭内や友人同士の気楽な関係より、仕事の場でよく使われることからすると、そう考えることもできそうだ。

 もっとも、仕事の場、あらたまった場といっても場合によるのであって、たとえば、日露戦争日本海海戦で「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモチョット浪高シ」では士気が今いちあがらなかっただろうし、終戦詔勅が「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テチョット時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニチョット忠良ナル爾臣民ニ告ク」ではどこまで本気なのかと疑りたくなる。ましてや、「千万人といえども我ちょっと行かん」では、意志が強いんだか弱いんだか、わけがわからない。

 これをお読みの方は仕事など、やや硬い場で「ちょっと」という言葉遣いに気をつけてみるといい。多用されていることにおそらく驚くと思う。「東郷元帥」の画像検索結果

「勝って兜の緒をちょっと締めよ」

オセロと雁と空気を読む空気

 おれは常々、日本の社会というのは大勢のおもむくところに自分もおもむくのを基本にしておるのでは、と思っている。他の多勢がそうしているから自分もそうするという行動原理があって、よく言えば従順だし、悪く言えば自分の判断の範囲が狭い。もちろん、あくまで傾向や確率の話であって、いやいやわしは千万人といえども我行かんである、という人もいるだろうし、わし基本的に自分の判断しか信じんもんねー、という人も実際、世の中にはいる。

 たとえば、被災地で給水車に日本人が順序よく並ぶのを見て、日本人は素晴らしいと褒められたり誇ったりする。全体最適という点では確かに順序よく並ぶのは結構だが、では順序よく並ぶ心理が「全体のため」ということかというと、いささか疑わしい。自分にひきかえて考えると、「まわりが並んでいるから」「列を乱すと悪意ある目で見られそうだから」と考えてしょうがなく並ぶように思う。いや、おまえがダメなだけだ、と言われれば、シィマセン、と言うほかないが。

 しかしまあ、同時期にパニックに陥ってトイレットペーパーを買い占める輩がいたり(なぜか日本ではショックを受けるとトイレットペーパーを買いに走るのだ)、匿名のSNSなどでの罵詈雑言を考えると、人の目がないと随分勝手なことをしよるなあ、全体や相互監視の目があるときとは随分と行動が違うなー、とおれは思うのだ。

 空気を読むという行為も大勢のおもむくところを予見するところから来ているとおれは思っている。たとえば、会議が長いなー、さっさと終わらせたいなーと多勢が思っているとなんとなく発言を控える。面倒臭い意見を言い出すやつがいると「空気が読めない」などと言われる。いわば、空気を読む空気が会議室を、会社を、ご近所を、日本の社会を満たしているのだ。

 日本オリジナルのゲームにオセロがある。自分が白の側で、おー、盤面白で満たされておるわい、などと喜んでいると、二、三手のうちにあっという間に盤面黒だらけにひっくり返ったりする。全体にしたがって盤面の色が一気に塗り替えられてしまう。あれは実に日本的だなーと思うのだ(民主党政権の誕生と没落がそんなふうだった)。オセロが日本で生まれたのは空気を読む空気に満つる社会だからではないか。こじつけか。

 大勢に従うという行為はなかなか興味深い。雁の列が、誰がリーダーというわけでもないのに統制がとれたり、魚の群れが全体としてまとまって動くのと似ている。

 まあ、おれは他の社会で暮らしたことがないから、大勢に従うということが日本特殊的事情なのか、他の社会でも似たようなことがあるのか、わからないのだが。

カレーは語れない

 ラーメンとカレーライスは日本で人気のあるツートップだと思うが、不思議とカレーライスはラーメンほど語られない。

 ラーメンについてはどこそこのラーメン屋のスープがどうのこうと評論、批評めいたものがわんさとあるし、ラーメン屋を紹介するムックやブログもいっぱいある。カレーライスのほうは、まったくないわけでもないのだろうが、本屋であまり見かけないし、ウェブサイトでもラーメンほどは語られないようだ。

 なんでだろーなー、と考えていたら、ひょいと答えが見つかった。

 ポイントは、パーツに分かれているか、なのだ。ラーメンは、麺、スープ、チャーシュー、野菜類、シナチク、ネギなど、はっきりパーツに分かれているので、それぞれについて語ることができる。総合もできる。ところが、カレーライスのほうはルーと飯、付け合わせで成り立っていて、肉や野菜などの具もルーの中に半ば溶け込んでいる。パーツごとの批評(大げさだが)がしにくいのだ。そのせいで、味についてはいきなり総合して語るしかない。

 同じことが、寿司とおでんについても言える。寿司は酢飯にネタそれぞれを語ることができる。一方のおでんはそれぞれの具が汁の中に溶け込んでいて、「チクワは」「コンニャクは」「ごぼう巻きは」などと語りにくい。せいぜい大根が比較的独立した地位にあるくらいか。

 だからどうした、と言われても困る。おれの書くものはだからどうしたというパーツの集まりだからだ。