オセロと雁と空気を読む空気

 おれは常々、日本の社会というのは大勢のおもむくところに自分もおもむくのを基本にしておるのでは、と思っている。他の多勢がそうしているから自分もそうするという行動原理があって、よく言えば従順だし、悪く言えば自分の判断の範囲が狭い。もちろん、あくまで傾向や確率の話であって、いやいやわしは千万人といえども我行かんである、という人もいるだろうし、わし基本的に自分の判断しか信じんもんねー、という人も実際、世の中にはいる。

 たとえば、被災地で給水車に日本人が順序よく並ぶのを見て、日本人は素晴らしいと褒められたり誇ったりする。全体最適という点では確かに順序よく並ぶのは結構だが、では順序よく並ぶ心理が「全体のため」ということかというと、いささか疑わしい。自分にひきかえて考えると、「まわりが並んでいるから」「列を乱すと悪意ある目で見られそうだから」と考えてしょうがなく並ぶように思う。いや、おまえがダメなだけだ、と言われれば、シィマセン、と言うほかないが。

 しかしまあ、同時期にパニックに陥ってトイレットペーパーを買い占める輩がいたり(なぜか日本ではショックを受けるとトイレットペーパーを買いに走るのだ)、匿名のSNSなどでの罵詈雑言を考えると、人の目がないと随分勝手なことをしよるなあ、全体や相互監視の目があるときとは随分と行動が違うなー、とおれは思うのだ。

 空気を読むという行為も大勢のおもむくところを予見するところから来ているとおれは思っている。たとえば、会議が長いなー、さっさと終わらせたいなーと多勢が思っているとなんとなく発言を控える。面倒臭い意見を言い出すやつがいると「空気が読めない」などと言われる。いわば、空気を読む空気が会議室を、会社を、ご近所を、日本の社会を満たしているのだ。

 日本オリジナルのゲームにオセロがある。自分が白の側で、おー、盤面白で満たされておるわい、などと喜んでいると、二、三手のうちにあっという間に盤面黒だらけにひっくり返ったりする。全体にしたがって盤面の色が一気に塗り替えられてしまう。あれは実に日本的だなーと思うのだ(民主党政権の誕生と没落がそんなふうだった)。オセロが日本で生まれたのは空気を読む空気に満つる社会だからではないか。こじつけか。

 大勢に従うという行為はなかなか興味深い。雁の列が、誰がリーダーというわけでもないのに統制がとれたり、魚の群れが全体としてまとまって動くのと似ている。

 まあ、おれは他の社会で暮らしたことがないから、大勢に従うということが日本特殊的事情なのか、他の社会でも似たようなことがあるのか、わからないのだが。