実家

 ふと気になった。日常会話でごく普通に使っているんだが、日本語では親の住む家のことを「実家」と呼ぶ。文字通りに捉えれば「実の家」であって、それでは実家に対して自分が今住んでいるところは「仮家」なのだろうか。

 おれの場合、富山で生まれ育って、数年前に親が京都に引っ越した。今、おれのいる東京の家のほうが住んでいる期間は長いのだが、それでも京都の親の家を「実家」と呼ぶ。してみれば、親の家を「本当の家」、自分の家を「仮の家」というふうにとらえるのかというと、必ずしもそうではないようだ。

 きちんと調べたわけではないが、自分の家がたとえば東京にあって、親の家も東京にある場合には実家とはあまり呼ばないような気がする。同じ地域に自分も親もいれば、実家という言い方をしないのだ、たぶん。

 ただ、これも場合によるのであって、同じ地域に住んでいても、「夫の実家」「妻の実家」という言い方はしそうで、「本来、自分が住むべき(住んでいた)場所」から出て家を形づくると、元いた場所を「実家」と呼ぶのかもしれない。

 あくまで仮説だが、「実家」という言い方は核家族化、ひとり暮らし化と関係していそうだ。昔は親の家を引き継いで住むケースが多く、別の家に住むとしても同じ地域に住むことが多かった。せいぜい、嫁入りや婿入りで別の家に住むようになったとき、親のいる家、つまり出てきた家を「実家」と呼んだ。それが、若い者が地方から都市に出ることが多くなり、昔の嫁入り、婿入りの「出た家」を転用して、親の家を「実家」と呼ぶようになった。とまあ、そんなところだろうか。

 まあ、あくまで例によって当てにならないおれの霊感によるものなのでちがっているかもしれないが、「実家」という言い方、社会のいろいろな変化や家族観の歴史もからんでなかなかに奥深いものがあるように思う。

 

牛乳と牛

 お米や野菜などで、生産者と消費者が直接つながる形がある。「どこそこの誰それ」が作ったお米、野菜と知ったうえで定期的に購入する。農家からのおたよりが来たり、時には購入者がその農家に遊びに行ったりすることもあるらしい。親戚が送ってくれるお米や野菜の拡大版みたいなものだろうか。食材だけでなく、どこか精神的なつながりを感じられるところがミソである。

 それでふと思いついたのだが、牛乳に、その乳を出した乳牛の名前を冠してはどうだろうか。牛乳パックそれぞれに、たとえば、「スミレの乳」「めぐみの乳」「銀子の乳」と刷るのだ。牛乳を飲むとき、「ああ、おれは今、岩手県花巻市に住むスミレさんの四つの乳腺から出た乳を飲んでおるのだなー」などとロマンチックな気分にひたれるだろう。

 まあ、現代の牛乳の大量生産方式では個体別に牛乳パックをつくるのは難しいかもしれないが、そこはそれ、IoTだか、ICタグだか、何かそういうものを利用すればいいだろう。知らんけど。

 同じ伝で、牛肉に個体名を冠することも考えられる。「太郎のリブロースステーキ」「ハナコのハンバーグ」「デビッド源五のバラ肉で作ったすき焼き」「しげみちゃんの舌のタン塩」などと、おそらく牛乳より個体認識はさせやすそうだが、いささか猟奇的に感じられるところが難である。

サマータイムを導入するくらいなら

 おれは世間の動きにうとくて、つい先日、2020年のオリンピックが東京で開催されることを知って腰を抜かしたくらいである。嘘である。

 そんな具合だから、サマータイム制の導入がここのところ話題になっていることはうすうすと聞いてはいるが、誰がどのくらい本気で考えているのかは知らない。まあ、昔からちょいちょいとは持ち上がって立ち消えになっている制度であって、おそらく今回も夏の暑さとともにフェイドアウトしていくのだろう。ちらりと漏れ聞くように、東京オリンピックのためというのなら、たかだか二週間の興行のために馬鹿馬鹿しい。

 どうしてもというのなら、サマータイム制よりシエスタを導入したほうがいいんじゃないかと思う。ご存知の通り、スペイン伝統の長い昼休みである(昼寝とは限らないそうだ)。今年の七月後半から八月前半は大変な暑さであったから、企業などで通常一時間の昼休みを二時間の昼休みにするのも悪くないと思う。在社時間が長くなるが、家に帰ってめいめいがエアコンを使うよりは会社でエアコンを使ったほうがエネルギー消費量もトータルでは少なくなるんではないか。例の興行も、一番暑い時間帯をぼうっと過ごして、午前と夕方以降に動いたほうがいいんじゃないかと思う。

 もっとも、我がニッポン民族はコマネズミのごとくセコ素早い民族であるからして、シエスタの二時間を我慢できるとは思えないが。

 サマータイムシエスタより、怠け者のおれとしてはスプリングタイム制を導入してもらいたいと思う。「春眠暁を覚えず」というように何せい、春の朝は眠たいから、一時間余計に眠らせてもらうのだ。これこそ、文化、風情というものだと思うが、セコ素早さを尊しとするこ真面目な人が多いから、無理だろうなあ。

恋のダイエット

 相変わらずダイエット業界方面は活発なようである。一発当てればかなり儲かるのであろう。

 おれにもひとつアイデアがある。昔から「身も細るような恋」という。この頃は恋というのは楽しいもの、ウレシハズカシなもの、という捉え方が多いようだが、どっこい、人間の本性はそう簡単に変わるものではないはずだ。惚れてしまって、それが思うにまかせぬなら、やはりつらいであろう。食も細れば身も細るであろう。

 おれのアイデアというのはこうだ。女性会員の皆様に、ぞっこんおれに惚れ込んでいただく。おれはわざとつれなくあしらうので、会員の皆様はつらい思いをするはずだ。食も細れば身も細る。恋をすれば、身づくろいのこまやかさか、はたまたホルモンでも関係するのか、女性はしばしばいっそう美しくなるから、一石二鳥だ。

 これで月会費1万円で会員を100人も集めてご覧。笑いが止まらないよ。

 問題は、どうやってぞっこんおれに惚れ込んでいただくか、だが、そこのところの思案がまだついていない。これをビジネス用語でデス・バレー(死の谷)という。違うか。

デュシャンは語る

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

 何気なく買った本だったが、当たりであった。楽しい読書体験だった。

 マルセル・デュシャンが79歳のときのインタビュー。デュシャンは20世紀前半のダダの代表的作家として知られている。近現代美術史の本にはほぼ間違いなく「泉」(小便器を美術展に出展した作品)が載っている。

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「大ガラス」も有名だ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/be/Duchamp_LargeGlass.jpg

 1930年代以降デュシャンはほとんど表舞台から姿を消した。このインタビューの頃はほとんど埋もれた存在だったらしい。

 読んでいて、ゆっくりと心動かされた。なぜかははっきりと捉えられない。大げさな言い方をすると、ある種の精神的態度に、ということかもしれない。極めて聡明で、知性的で、ウィットに富む人物で、しかし、その精神は単に合理的とも、経験主義的とも、審美的とも、(そんな言葉あるのかわからないが)感性的とも整理できない。あえて言うなら、己の好奇心と思考に対して誠実な態度におれは感銘を受けたようだ。

 デュシャンは画家としてキャリアをスタートしたが、ある時期から絵を捨ててしまった。

網膜があまりに 大きな重要性を与えられているからです。クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。誰もがそこで間違っていたのです。網膜のスリルなんて! 以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。私に反網膜的な態度をとるチャンスがあったとしても、それはたいした変化はもたらしませんでした。今世紀全体がまったく網膜的なものとなってしまっているのです。

 現在ではデュシャン現代アートの祖のように捉えられている。現代アートデュシャンの流れを汲んでいるのか、それとも現代アートのほうでデュシャンを再発見したのか、おれは知らない。

 先にも書いたように、このインタビューの頃、デュシャンはほとんど埋もれていて、著者のピエール・カバンヌによれば「デュシャンに関する研究書はほんのわずかしかない」状況だった(インタビューは1966年)。それが今では二十世紀のアート史上最も重要な存在のひとつとされている。デュシャンの次の言葉は印象的であり、皮肉でもある。

私は絵画は死ぬものだと思っています。おわかりでしょう。タブローは四十年か五十年もすると、その新鮮さを失って死んでしまいます。彫刻だって同じでしょう。これは私のちょっとした十八番で、誰も認めてくれないのですが、そんなことはかまいません。私は、タブローはそれをつくった人間と同様、何年かたてば死ぬのだと考えています。それから、それは美術史と呼ばれるようになるのです。今日の真っ黒になってしまったモネと、六十年から八十年も前の、輝きを放っていた、つくられたばかりのモネとでは、たいへんな違いがあります。現在では、それは歴史の中にはいってしまい、そのようなものとして受けとられています。

 

 

ことわざの生命

「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがあって、なかなかに奇妙である。

 ことわざというのは一般に、世の中の仕組みや機微、あるいは人情の妙などを短い、しばしば奇抜なフレーズで納得させる。意味と表現のからみあいが卓抜なことわざは人口に膾炙し、後へと残る。つまらないことわざや、時代・世情と合わなくなったことわざは消えていく。ことわざの生命とはそうしたものだと思う。

 しかるに「秋茄子は嫁に食わすな」がいまだに残っているのは謎である。意味には3通りの説があるらしい。

a. 秋茄子は美味いから嫁に食わすにはもったいない。

b. 秋茄子は身体を冷やすから大切な嫁には食べさせてはいけない。

c. 秋茄子は種が少ないから食べると子種に恵まれないかもしれぬ(から、嫁に食べさせてはいけない)

 aはずばり姑の意地悪である。bはその逆で姑が嫁を大切にしていることを表しているが、どうもこれは姑側からの反論じみている。aだとまるで自分たちが悪者みたいなので、bの理由付けが出てきたのではないか。cはまあ、縁起担ぎ、あるいは類似の連想みたいなもので、わからんでもない。カズノコの反対であろう。

 不思議なのは、今の世の中でもまだ「秋茄子は嫁に食わすな」が生き残っていることだ。このさまざまな食べ物が手に入る世の中にあって、秋茄子はそんなに話題にするほどのものだろうか。意味aならば「千疋屋のメロンは嫁に食わすな」でもいいし、意味bならば「ビールは大ジョッキで嫁に飲ますな」でもいい。

 思うに「秋茄子は嫁に食わすな」は、「このことわざはいったい何を言いたいのか?」を議論するためだけに現代に生き残っているのではないか。「この作品はいったい何を言いたいのか?」と問いかけてくる現代アートのようなものであり、そういう意味では前衛的な姿勢のことわざだと思うのである。

大会テーマソング

 今回のサッカー・ワールドカップは試合が深夜におよぶので、平日はなかなか見れなかった。それでも試合には面白いものが結構あった。

 一方、相変わらず謎なのがテレビ放送の「大会テーマソング」というやつで、安いJポップが付いてくる。番組制作側の安いセンス丸出しで、ヤメテクレヨ、と思う。「大会を盛り上げるため」ということなのかもしれないが、テーマソングや変な演出がなくたって、試合自体が盛り上がるんだから、別に要らんだろう。

 番組制作上オープニングやエンディングにどうしても要るというなら、ありきたりのJポップなんかやめて、大会開催国にちなんだ曲を使えばいいんじゃないか。たとえば、今回のロシアならこれなんてどうだろう。

youtu.be 深刻すぎるか。これじゃあ、勝ち負けが命に関わる。

 ふと思ったんだが、NHK大相撲中継にも「今場所テーマソング」としてJポップをつけてみたらどうだろう。♪夢のかけ橋へ〜、かなんか。