相撲源氏

 理由は知らないが、大相撲の部屋には井筒、尾車、片男波高砂など、雅な名前が多い。その部屋の師匠の顔は:

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 だったりするのだが、ともあれ、名前は雅なのである。

 雅といえば源氏物語の巻名がそうで、では、源氏物語に相撲部屋を紛れ込ませるとどうなるであろうか。

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 まあ、最後がちょっとあれだが、なかなかいい感じで溶け込む。なお、決して親方の顔を思い浮かべてはいけない。

知ってるつもり

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 たまたま手にした本だったが、良書だった。多くの人がおそらく気づいているだろうことを認知科学の見地から上手に整理してくれる。

 我々は物事の多くを何となく「知ってるつもり」で暮らしていて、大過ないのでそのままにしているのだが、実は大して物事を本当に理解しているわけではない。たとえば、多くの人は洋式便器が流れる仕組みを知らないし、ファスナーが開閉する仕組みも知らない。それでも、ハンドルを下げるなりスウィッチを押すなりすれば水は流れるし、ファスナーの引き手を上げ下げすれば閉じたり開いたりする。

 世の中がうまく回っているのは個人個人が全ての知識を持っているからではなく、コミュニティの中で知識を分担しているからだ、というのが著者たちの主張だ。トイレのやファスナーの仕組みを個人個人がきちんと理解していなくても、便器のメーカーや配管工、あるいはファスナーのメーカーが仕組みを理解して、差配ができれば、世の中はうまく回る。人類がここまで繁栄できたのも、個人の知識が深く多いからではなく、むしろ、ひとりひとりの知識はたいしたことなくてもコミュニティのなかで知識を分担できたから、という。無知無能な私としてはとても納得がいく。

 しかし、この、コミュニティによる知識の分担には困った点もある。たとえば、政治に対する意見がそうだ。人々は大して知識がなくても「多くの人がそう言っている」ということから「知ってるつもり」になって意見をがなってしまう。

 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家ということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。

 これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支えあうが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。

 政治的な問題はたいがい複雑な要素のからみあいから成るが、人間は面倒くさいのか、価値観で直感的に判断してしまうのか、つい単純化してしまいがちになる。そうして、単純化した似たような意見の持ち主同士が結びつき、別の単純化した意見の持ち主たちを敵視してしまう。おそらくそうした敵視は快くもあるのだろう。SNSによって、こうした分断はより谷を深くしているようにも見える。

 人間は知ってるつもりで実は大して知っていない、ということを認めること。謙虚さは時に死活問題に活きると思う。

ヘアーとすっぴん

 先日も書いたように、最近、頭の後ろと横を上まで刈り上げている。

 前に刈り上げてから二週間が経ち、髪が伸びてきた。

 普段は整髪料で無理矢理に形をつけているのだが、シャワーを浴びて髪を乾かすと、一本一本の毛が立ち上がってなかなか盛大である。一番似ているのはタワシだが、勢いも含めて表現するなら、夏、伸び盛りの川原の雑草か、あるいは手品師がポン、と飛び出させる花束かもしれない。

 鏡を見ながら、「ああ、女性にとってのすっぴんってこういうことなのだなあ」と思った。

 二十代以上になると、日本の女性の多くはすっぴんをあまり見せたがらなくなる。家族など、心を許せるというか、物理的に見せざるを得ない相手以外にはすっぴんを恥ずかしがる人が多い。

 おれは化粧をしたことがなく、また、一般に男は化粧をせずともよい、とされる文化のなかで生きてきたから、化粧とすっぴんをめぐる女性の心理というものを実感したことがなかった。なるほど、こういうことであったか。

 そして、鏡の中の雑草の大群を眺めながら、「『本当の自分』とは、整髪料で髪を整えたおれだろうか、伸びるがままのおれだろうか?」と考えたのであった。

 同じ伝で、化粧(化けて粧う、と書く)に長けた敬愛する女性の皆様方よ、「本当の自分」とやらは、化粧をしたあなただろうか、すっぴんのあなただろうか?

サバ食うべきか、食わざるべきか

 おれは小太りになってしまった。

 二十代前半の頃の体重は五十キロ台前半で、身長は168cmだから(今も変わらない)、その頃は中肉中背か、むしろ痩せたほうだったろう。それが今は七十キロだから、四半世紀の間に二十キロ近く太ったことになる。運動なんぞしないから、太った部分のほとんどは脂肪と考えられ、全身に二十キロもの脂肪を付けていると想像すると、そら恐ろしい。

 健康診断を受けると、案に違わず、中性脂肪の値が高いと言われる。中性脂肪を減らすには、青魚(サバ、アジ、イワシなど)に含まれるEPADHAという物質がいいらしい。青魚は好きだから結構なのだが、問題はサバである。サバの塩焼きは定食屋の定番メニューだし、骨を取りやすいので、面倒くさがりのおれには大変に便利だ。しかし、困ったことにカロリーが高いのだ。中性脂肪を下げるためにカロリーの高いサバを食って太ってしまったら、本末転倒ではないか!?

 サバ食うべきか、食わざるべきか。こんなことに悩むようになったおれは体重とはは比例して、スケールがどんどん小さくなっている。

ヘアー

 ゴールデンウィーク頃から口髭を伸ばし始め、三週間前に髪を思い切って短くした。

 毒にも薬にもならないような普通の髪型が疑問に思えてきたので、床屋のマスターと相談しながら髪を切っていった。

「思い切って短くしてよ」

「こんな感じスかねー」

(メガネを外していて、ぼんやり見える鏡の中の自分を見ながら)

「もっとイケるよ。もっと行こうよ」

「(笑)行きます? (切りながら)あー、これじゃ、前髪がひさしみたいになっちゃうな。思い切って切っちゃいますね」

「もっと行けんじゃない?」

「こんな感じスか?」

 メガネをかけて鏡を見ると、そこには見事な角刈りの男がいた。

 会社に行くと、だいたい二つの反応に分かれた。ひとつはいきなり半笑いになるタイプ、もうひとつは三秒くらい経ってから驚くタイプだ。どうやら、人間の顔認証のシステムには限界があるらしい。

 おおむね笑いを呼ぶので、成功である。似ている人についてはさまざまな意見があって、菅原文太(こんな、かばちたれとる場合じゃなかろうが!)、工務店のオッサン、藤岡琢也渡る世間は鬼ばかりの人)、青果市場の人、雀荘でラーメンを食べてる人、等々、全般的に昭和のニッポン方面の方々であった。

 髪を短く刈っている人はわかると思うが、二、三週間も経つと、頭はタンポポの綿毛か、トイレのブラシみたいになってしまう。昨日、また床屋に行った。今度は上をそのまま伸ばしておいて、横と後ろを上まで刈り上げることにした。ヨーロッパのフットボール選手か、海兵隊、かつて一世を風靡したグレース・ジョーンズのイメージだ。

「こんな感じスかね?」

 メガネをかけて、鏡を見た。

 そこには寿司職人がいた。

京都人のA.I.

 シンギュラリティと呼ぶらしいのだが、人工知能の知的能力が人間を超える日のことだ。SFで昔から描かれてきたテーマだが、どうやら現実的になってきているらしい。

 A.I.が人間に代わって応対することは基本的な受け答えなら実現している。それでふと思いついたのだが、京都人の応対をA.I.に学ばせたら、どうだろうか。京都人のA.I.、すなわち、K.I.(キョウトジン・インテリジェンス)の開発である。

 京都人の応対が、よその人間からするとしばしば皮肉っぽかったり、嫌味に聞こえたりするのはよく知られている。子供が騒いでいると「元気なお子さんでおすなあ」と言ったり、配達が遅れると「遅うまでよう働きはるなあ」と言ったりする、例のあれだ。

 まあ、実際には京都人といってもいろいろな方がいて、みんながみんないつも皮肉や嫌味じみたことをおっしゃるわけではない。おれは一年ほど京都に住んでいたことがあるが、嫌な思いをした覚えがほとんどない。しかし一方で、よそ者が容易に中に入れないような独特の空気を感じたことも確かだ。

 あくまで想像だが、千二百年の都であるからか、京都の人には人間の生なぶつかり合いを嫌うところがある。それで相手を持ち上げるような言い方をしつつ、それとなく気づかせる、という言語習慣ができたのだと思う。

 そこらへんの機微がよそ者にはなかなかわからない。それでもって、後になってふと「あ、あれは嫌味だったのか」と気づき、愕然とするわけだ。

 A.I.は、入力に対して、パターンを組み合わせたり、変形させたりして出力する。入力と出力を数々こなしながら、適切なパターンの組み合わせ方や変形させ方を学んでいく。人間が応対の仕方を学んでいくのと似て、最初はピントはずれでも、積み重ねで、だんだんと適切な応対(入力と出力)のかたちを作り上げていく。

 京都人の応対のパターンをA.I.が学んだら、どういうコミュニケーションが生まれるだろうか。散らかった部屋をカメラで見て、「このところ、忙しいようどすなあ」とのたまったり、休暇で海外旅行のセッティングをたのむと、「時間とお金に余裕のある方はよろしおすなあ」とのたまったりするのか。

 A.I.が京都人の応対を完璧に学び、こなしきるようになったとき、すなわち、K.I.が完成したときがシンギュラリティへの到達である。そしてそのとき、人間はK.I.を叩き壊したくなるにちがいない。

物忘れ

 おれも生きている時間がだいぶ長くなってきて、このところ、老化現象に悩まされている。

 ……などとゆるい慣用句として「悩まされている」と書いてしまったが、本当のところは悩んではいない。運動能力はもともと笑ってしまうほど低いし、体の代謝機能が衰えても腹が出っぱるだけである。幸い腰痛には見舞われておらず、肩は凝るけれども、おれの抱える数多くの不調のひとつにすぎない。思考力が衰えても、幸か不幸か人様に迷惑をかけるようなポジションにいないので気楽なものである。チャレンジのラインが低いと、こういうとき、便利だ。

 老化現象を実感するひとつに物忘れがある。「ああ、あれをしなきゃ」と思っても、すぐに忘れてしまう。コンビニに買い物に行って、何を買いに来たのか、忘れていることもある。トランプの神経衰弱をすると、マジで苦しい。ニワトリは三歩あるくと記憶をなくすというが、まあ、三歩とはいわないけれども、五歩で忘れる。

 

 ……という文章を三日ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を一週間ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を二週間ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を一ヶ月ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を三ヶ月ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を半年ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章を一年ほど前に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。

 

 ……という文章をだいぶん昔に書いたのだが、続きを書くのを忘れていた。あれから百年が経つ。