サイゴウドン

 家にころがっているいいちこのラベルを見たら「下町のナポレオン」と書いてあって、あー、そういえば随分昔からこのキャッチフレーズを使い続けているよなー、と思った。

「下町のナポレオン」というフレーズは、もちろん、ブランデーの等級の「ナポレオン」から来ている。ナポレオンはコニャックやアルマニャックでは高級酒で、かの英雄ナポレオン・ボナパルトに由来している。

 それでふと思ったんだが、芋焼酎にも等級を導入したらどうだろうか。高級芋焼酎を、我が国の誇る英雄にちなんで「サイゴウドン」と名付けるのである(薩摩弁では「セゴドン」という発音が近いらしいが、ここは全国視点でマーケティングする)。「さつま美人 サイゴウドン」「海童 サイゴウドン」「魔王 サイゴウドン」「さつま白波 サイゴウドン」などと、なかなかに雄々しく、豪快ではないか。もちろん、「サイゴウドン」の名称は薩摩芋焼酎にしか許されない。宮崎あたりの芋焼酎が「サイゴウドン」を付けようものなら、チェストーッ! 西南戦争が再び勃発する。

 幕末〜明治期に薩摩からはいろいろな英雄が出ているが、ここはやはり、「日本の国ナ、戦(ゆっさ)がまだまだ足りもはん」と豪快に言い放つサイゴウドンだからいいのであって、イチゾードン、では今ひとつ迫力が足りない。キリノドン、シノハラドン、カワジドンでは小粒である。

 ただ、この名称が高級酒と認知されるようになると、そのうち「下町のサイゴウドン」と名乗る酒も出てくるかもしれず、そうなると、もはやわけがわからないのである。

記憶引き出し説

 おれは今、五十歳で、ここ最近、物忘れが多くなった。

 物忘れにも大きく分けてふたつある。名前が出てこないという場合と、やるべきことを忘れてしまう、やったかどうかを忘れてしまう場合だ。あれ、みっつかな。

 名前が出てこないというのは、たとえば、人と話していて映画のタイトルが出てこないとか、人の名前が出てこないというのだ。「あれだよ、あれ。ほら、あのこれこれこうなって、こうなるやつ。もうここまで出かかってるんだけどなあ」と、便秘の便みたいなことになる。

 もう一方のやるべきことを忘れてしまう、やったかどうかを忘れてしまうというのは、たとえば、買おうと思っていたものをコンビニに行って買い忘れてしまうとか、薬を飲んだかどうか忘れてしまう。

 物忘れというのはガタの来た引き出しのようなものではないかとおれはニラんでいる。前者の、名前が出てこないというのは、記憶の引き出しが歪んできて、なかなか開かないのだ。しかし、完全にダメになっているわけでもなくて、何かの拍子にひょいと開いたり(つまり、思い出したり)する。一方、後者の、やるべきこと/やったかどうかを忘れてしまうというのは、引き出しを開ける/開けたことを忘れてしまうのだ。

 まだおれが体験してない物忘れに、相手を認識できない、というのがある。いわゆるボケで、よく聞くのは、親が歳をとって、息子や娘に「どなたでしたっけ?」と尋ねるパターンだ。息子や娘からすると、なかなかにショックらしい。

 これは引き出しが開かないののひどいやつなのだろうか、それとも引き出し自体がなくなってしまうのだろうか。

 どういう感じなのか、自分で体験してみたいと思う。しかし、体験したときにはそもそもそんな問題意識自体、忘却の彼方なのかもしれず、さて、どうなることか。

DNA

「DNA」という言葉が安易に使われていて、気になることがある。

 遺伝の話をするのなら、何の問題もない。しかし、「代々受け継がれていくもの」→「DNA」という捉え方になると、甚だ怪しい。

 典型的なケースが「日本人のDNA」という言い回しだ。感性とか文化の話にDNAが出てくるとおおよそ誤り、こじつけと判断していいと思う。

 DNAというのは物質の名称で、転写によるDNAの複製もあくまで化学反応である。たとえば、ウンコをするという生物学的行為はDNAで伝わるけれども、ウンコをするとき、しゃがむのか、腰掛けるのか、紙で拭くのか、水で洗うのか、といった所作は伝わらない。それらは人が人となってから学ぶものであって、それこそが文化というものだろう。

 ましてや、花鳥風月に関する情報がDNAで伝わることもなければ、大和魂がDNAで伝わることもなく、三十一文字に風韻を感じる心も伝わることもなければ、武士道を愛する心が伝わることもない。それらはすべて文化の所産であって、その、人と人を介して(生物学的にでなく)伝わっていく仕組みにこそ、驚くべきであると思う。生物学的に日本列島と何の関係もなく生まれた人が「ワシは実はサムライなのじゃ。明日ありと思う心の仇ザクラ!」といきなり切腹することだってあり得るのだ。それはDNAに由来するものではない。

 インチキDNA論を簡単に見破る方法がある。DNAをその元である「デオキシリボ核酸DeoxyriboNucleic Acid)」と言い換えてみればよい。たとえば、「おもてなしの心は日本人のデオキシリボ核酸に刻まれている」と言うと、その言い回しのインチキくささが露わになる。

 おれは、文化的行為に安易にDNAを持ち出す輩は馬鹿にしてよいと思っている。

A.I.は人間がモデルでないといかんのか。

 無知というのは便利なもので、知らぬのをいいことに勝手なことをほざける。

 おれはA.I.なんぞというややこしいものについて勉強したこともなければ、近づいたことすらない。何となく、会話や書かれたものを含めて人間の行動をインプットし、そのデータベースに基づいて行動させ、それに対する人間の行動をインプット(フィードバック)する。それを繰り返すうちに人間の行動パターンを多数集めて、場面ごとに最適な行動を会得させる、とまあ、そんな仕掛けなんじゃないかと睨んでいる(ヤブ睨みかもしれないが)。

 それでふと思ったのだが、A.I.に学ばせるのは別に人間の行動じゃなくてもいいんじゃなかろうか。犬や猫の行動を学ばせるとどうなるんだろうか。あるいは、オンドリの行動を学ばせるとなかなかエキセントリックなA.I.が作り出せるんじゃないか。コ、コ、コ、コ、クワーッ、コ、コ、コ、コと始終せわしなく動き回り、人間が不用意に近づくといきなりお尻をつついて追いかけ回す。そんなA.I.があってもいいと思う。

 なぜあってもいいかというと・・・単におもしろいからだ。実用性なんぞという下種なものにおれは興味がない。ワッハッハ。ごめん。

 

“実用とは、人間を飼いならすために神が与えた虚妄である。”

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(嘘)

民主主義、民本主義、民権主義

 政治思想というものをほとんど知らぬがゆえの厚かましさでふと思ったのだが、我が国において西洋のdemocracy(以下、デモクラシー)の訳語を「民主主義」としたのは、いささかしくじったんではないか。

 字面通りに「民主主義」を眺めると、「民を主とする主義」と読めてしまう。デモクラシーというのは人民が主権を持つ制度、あるいは体制だから、「民を主とする主義」ではかなり曖昧である。下手すると、民のための政治を行う考え方、と誤解されてしまうし、実際、そんなふうに誤解している人も多いようだ。

「民のための政治を行う」なら、孔子様の昔からそういう考え方はあった。「民信無くば立たず(民の信頼無くして政治は成り立たない)」と論語にもある(と今、すかさず調べた)。この考え方はいっそ「民本主義」と呼べば整理しやすい。

 デモクラシーのほうは「民権主義」と呼んだほうがわかりやすいと思う。学校の歴史の授業でも、明治に自由民権運動というものがあり、板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず!」といういささか新派の芝居じみた台詞とともに教わったものだ。いっそそのまま、デモクラシー=民権主義と呼び続ければよかったのに。何か問題でもあったのだろうか。

 Wikipediaで素早く調べると、この件は大正時代の吉野作造先生が犯人、とまでは言わないが、重要参考人である。吉野先生は、デモクラシーの訳語として:

 

・国家の主権は法理上人民にあり(民主主義)、
・国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし(民本主義

 

の2つがあるとのたまった。人民主権主義の略で「民主主義」なんだろう。

 このとき、「民権主義」を訳語に当てれば、その後の曖昧さも誤解も少なかったろうに、いささか後世に禍根を残しましたな、吉野先生。

断捨離と思い入れ

 先日、妹からメールが来た。富山の実家が取り壊されるとのこと。

 文面から妹がさみしく感じているのはわかった。一方、おれはというと、特に感慨はない。おれが高校を出るまで育った家であり、それからも盆暮れには帰っていたから何かあってもよさそうなもんだが、いやはや、薄情なのかね。

 家以外についても、おれは全般に思い入れが薄い。いわゆる母校に対してもほとんどなつかしさを感じたことがないし、いなかについてもそうだ。音楽や映画、小説なんかには思い入れのあるものがないではないが、総じてモノや場所には特別な感情をあんまり抱いていない。

 考えてみれば、おれが最後に「さみしい」という感情を味わったのが、今をさかのぼること四半世紀ほど前だ。今、とっさに「さみしい」という感情を心の中で再合成しようとしてみたがうまくいかない。あや。人間として何かが欠けているのかしらん。

「断捨離」というものが世の中で結構はやっているらしい。身の回りを片付けて、すっきりする、ストレスを減らすということのようだ。おれはそもそも捨てるということがわずらわしいんだが、ハテ、おれのようにモノへの思い入れの薄い男が断捨離した場合、効果あるんだろうか。

 まあ、生きてることすら面倒くさく感じてる始末なので、断捨離なんて面倒で面倒でまずやらないだろうが。

アイロンがけの楽しみ

 これを書くと、今の日本では知性・品性・感性の三点において馬鹿にされかねないのだけれども、おれは村上春樹の小説が苦手である。といっても、最後に読んだのはもう十数年前だが。

 話の冒頭からビールだのコーラだのTシャツだのスパゲティーだのと続いて、負けてたまるかニッポン男児のおれとしては萎えてしまうのだ。少なくともおれはバーで酒を飲んでいて、見知らぬ女の子から「ねえ、記号と象徴って何が違うのだったかしら?」などと話しかけられたことはない(関係ないが、村上春樹ワンカップ大関を飲みながら大相撲中継を見たことがあるだろうか?)。

 それでもしばらくしのぎきると、村上春樹の筆力と構成力とその他もろもろに圧倒されて、結局は最後まで読みきってしまう。おれの場合、峠を越えるまでが大変なわけで、できればアプト式を採用したいくらいだ。

 何かの小説に村上春樹が「僕がアイロンをかける工程は○○に分かれていて〜」かなんかそんなことを書いていて、おれは、なぁーーーーーーーーにをスカしておるのか!、と月に向かって吠えたものである。

 ところがそれから幾星霜。ちょっと恥ずかしいのだが、おれは今、アイロンがけを結構楽しんでいる。しかも、ちゃんと工程が決まってしまった。

 アイロンがけの一番の楽しみは、生乾きのシャツにアイロンを当て、ジュワッと水蒸気があがる瞬間だ。なぜか知らないがうれしい。もしかしたら、そのとき、おれはウヒウヒウヒと笑っているかもしれない。

 夏の間は早く洗濯物が乾いてしまうので、このジュワッと水蒸気があまり味わえない。これから冬にかけてはいい具合に生乾きになるので、楽しみだ。

 アイロンがけを楽しむようになって、しかも決まった工程までできてしまって、おれは悔しい。敗北感を味わっている。クソ。おれはエプロンなんかしないぞ。男は黙って前掛けだ! そういう問題ではないか。

 村上春樹の「ノルウェイの森」(Norwegian Wood。どうでもいいけど、古いね)に対抗して、おれはいつか「木曾の木材」という小説を書いてやろうと思っている。