記憶引き出し説

 おれは今、五十歳で、ここ最近、物忘れが多くなった。

 物忘れにも大きく分けてふたつある。名前が出てこないという場合と、やるべきことを忘れてしまう、やったかどうかを忘れてしまう場合だ。あれ、みっつかな。

 名前が出てこないというのは、たとえば、人と話していて映画のタイトルが出てこないとか、人の名前が出てこないというのだ。「あれだよ、あれ。ほら、あのこれこれこうなって、こうなるやつ。もうここまで出かかってるんだけどなあ」と、便秘の便みたいなことになる。

 もう一方のやるべきことを忘れてしまう、やったかどうかを忘れてしまうというのは、たとえば、買おうと思っていたものをコンビニに行って買い忘れてしまうとか、薬を飲んだかどうか忘れてしまう。

 物忘れというのはガタの来た引き出しのようなものではないかとおれはニラんでいる。前者の、名前が出てこないというのは、記憶の引き出しが歪んできて、なかなか開かないのだ。しかし、完全にダメになっているわけでもなくて、何かの拍子にひょいと開いたり(つまり、思い出したり)する。一方、後者の、やるべきこと/やったかどうかを忘れてしまうというのは、引き出しを開ける/開けたことを忘れてしまうのだ。

 まだおれが体験してない物忘れに、相手を認識できない、というのがある。いわゆるボケで、よく聞くのは、親が歳をとって、息子や娘に「どなたでしたっけ?」と尋ねるパターンだ。息子や娘からすると、なかなかにショックらしい。

 これは引き出しが開かないののひどいやつなのだろうか、それとも引き出し自体がなくなってしまうのだろうか。

 どういう感じなのか、自分で体験してみたいと思う。しかし、体験したときにはそもそもそんな問題意識自体、忘却の彼方なのかもしれず、さて、どうなることか。