DNA

「DNA」という言葉が安易に使われていて、気になることがある。

 遺伝の話をするのなら、何の問題もない。しかし、「代々受け継がれていくもの」→「DNA」という捉え方になると、甚だ怪しい。

 典型的なケースが「日本人のDNA」という言い回しだ。感性とか文化の話にDNAが出てくるとおおよそ誤り、こじつけと判断していいと思う。

 DNAというのは物質の名称で、転写によるDNAの複製もあくまで化学反応である。たとえば、ウンコをするという生物学的行為はDNAで伝わるけれども、ウンコをするとき、しゃがむのか、腰掛けるのか、紙で拭くのか、水で洗うのか、といった所作は伝わらない。それらは人が人となってから学ぶものであって、それこそが文化というものだろう。

 ましてや、花鳥風月に関する情報がDNAで伝わることもなければ、大和魂がDNAで伝わることもなく、三十一文字に風韻を感じる心も伝わることもなければ、武士道を愛する心が伝わることもない。それらはすべて文化の所産であって、その、人と人を介して(生物学的にでなく)伝わっていく仕組みにこそ、驚くべきであると思う。生物学的に日本列島と何の関係もなく生まれた人が「ワシは実はサムライなのじゃ。明日ありと思う心の仇ザクラ!」といきなり切腹することだってあり得るのだ。それはDNAに由来するものではない。

 インチキDNA論を簡単に見破る方法がある。DNAをその元である「デオキシリボ核酸DeoxyriboNucleic Acid)」と言い換えてみればよい。たとえば、「おもてなしの心は日本人のデオキシリボ核酸に刻まれている」と言うと、その言い回しのインチキくささが露わになる。

 おれは、文化的行為に安易にDNAを持ち出す輩は馬鹿にしてよいと思っている。