日本の国語教育について

 日本語を勉強している中国の学生とSNSでやりとりしていて、その学生が「日本人は意識の流れに従って文章を書くことが多い」という。「中国では円を描くように書くように教わって、違う書き方をすると怒られる」のだそうだ。

 何のことだろうとしばらく考えたのだが、どうやら意識の流れに従って書くというのは随筆(筆に随[したが]う)的な書き方のことで、円を描くように書くというのは最初に主張なり結論なりを書き、最後も再び主張なり結論なりで終わる論述文の書き方のことのようだ。おもしろく、考えようによっては実用的な言い方をするものだ。

 それで思ったのだが、日本の少なくとも高校までの作文教育は論述文の訓練が少なすぎるのではないか。いやまあ、これはもっぱらおれが凄まじい美少年だった頃の印象を元にしているから、随分と古い話ではあるけれども。もし最近の国語教育事情について詳しい方がいらっしゃったら現状について教えていただきたい。

 おれが凄まじい美少年だった頃の記憶では、作文の時間はあったが、国語教育の中心ではなかった。国語というと文学作品か評論の読解が中心だった。読んでわかるようになれば国語の力がつくというふうだったが、おそらくそれは間違いだろう。読解はもちろん重要だが、それだけでは足りない。読めることと書けることは別の話である。

 おれは文章を生業にしているが、雑誌の編集部に入って最初に仕事で文章を書かなければならなくなったときは困ったものだ。大げさにいえば途方に暮れた。文章の組み立ても、段落分けも、句読点の打ち方すらも、いざ自分でやってみると自信が持てなかった。学生の時分に国語が苦手だったわけではない。むしろ自分では得意なつもりであった。そうであっても、いざ仕事でひとわたりの文章を書こうとするとあたふたしてしまうのだ。経験というほどのものがないのだから当然である。

 少々暴論になるが、高校までの国語教育では小説や詩をそんなに読ませなくてもいいんではないかとおれは思う。そういうものは、ある程度の年頃になればガキどものほうで勝手に読みたくなるものだからだ。学校ではせいぜい、世の中にはそういうものがありますよと教えればいいんではないか。あとはガキどものほうで勝手にやるだろう。なぜなら、小説や詩はおもしろいからだ。

 学校教育には、授産の面と教養の面、情操教育の面があると思う。数学や物理・化学なんかは授産の面が強く、音楽なんかは情操教育の面が強い。教養の面は全てにわたる。国語教育については授産の面が弱すぎるように思う(もし今もおれが凄まじい美少年だった頃のふうだったら、だが)。仕事にもよるんだが、一般企業や役所に入れば仕事の多くの部分を占めるのが文書づくりである。文書作りには論理構成や、文の接続法、一文の構成、句読点の入れ方、テニヲハが重要だ。そうして、(繰り返しになって申し訳ないが、少なくともおれが学生だった頃は)国語の授業ではあんまりそういうことを教えないんである。例えば、読みやすくわかりやすい句読点の打ち方を理解している大人は案外と少ない。授産としての国語教育が十分になされていないせいだと思う(そもそもオーソライズされた句読点の打ち方が確立されていないのが大きいが)。

 日本の国語教育は文学に偏りすぎているきらいがある。小学校で「遠足」をテーマに文章を書かせるが(たぶん、今でもやっているだろう)、あれはどうしても随筆的な書き方になってしまう。「自分の気持ちを書きなさい」などと言うが、あれも文学志向だろう。仕事で使うような論述文では、普通、気持ちの表現は二の次、三の次である。随筆的書き方も重要ではあるし、随筆的な物のわからせ方というのもあるが(この文章も随筆的書き方だ)、それに偏りすぎてはいけないと思う。

 おそらく、日本では論述文の書き方を多くは独学で習得しなければならない。これは恐るべきことだと思う。ガキどもには論理構成や、文の接続法、一文の構成、句読点の入れ方、テニヲハのルールやティップスを教えて、ガンガン書かせる。ムチでしばいて書かせる。泣きながらでも「序論」と書かせ、しゃくりあげながらでも「結論」と書かせる。授産の面で大切なことだと思う。

(以上、何度も書いて恐縮だが、自分の学生時代の記憶をもとに書いた。現在の国語教育についてご存知の方がいらっしゃったら、作文教育の現状について教えていただきたい)