なぜ「は」と「が」があるのか

「は」と「が」の違いは日本語を母国語にしていると直感的にわかる。しかし、その使い分け方を論理的に説明しろといわれるとなかなかに難しい。世にはいろいろと説明があるようだが、微に入り細にいりというふうなものが多い。例えば、あるページでこういうまとめを見つけた。

日本語教育における「は」と「が」の教授法』より


新情報と旧情報の原理
 旧情報には「は」、新情報には「が」
現象文と判断文の原理
 判断文には「は」、現象文には「が」
措定と指定の原理
 措定には「は」、指定には「は」か「が」
有題文と無題文の原理
 有題文には「は」、無題文には「が」
文と節の原理
 文の中には「は」、節の中には「が」
対比と排他の原理
 対比のときは「は」、排他のときは「が」

 正しいのかもしれないが、マスターするのはなかなかにシンドい。象を説明するのに、鼻やら目やら口やら足やら皮膚やら尻やら細部を記述して、「というのが象です」と説明しているふうでもある。
 何かこう、もっとスパッとわかりやすい説明はないかなあと思っていたら、英語で書かれたこういうページを教えてもらった。

“Tae Kim's Blog”
→ The difference between 「は」 and 「が」
→ I’m soooo boring! Hee hee *snort*

 おれなりの解釈も含めて説明すると、こういうことのようだ。日本語は文脈(コンテクスト)に即して語る言語で――とは要するに話し手と聞き手、書き手と読み手の間で必要な言葉だけを語る言語という意味で、例えば、「飯食った?」「食った」で意が通ずる。英語だと「Did you eat lunch?」(あなたは飯を食ったか?)「I ate (it).」(私は(それ)を食った)だが、日本語の場合は「私」や「あなた」、「それ」が何を指すかを話している者同士の間で了解していれば、言わなくてもよい。まあ、例えば、

「食った?」
「食った」
「行く?」
「行こう」
「面倒だな」
「でもない」
「何だよ」
「うっせー」
「何様だ」
「うぜえ」
バカスカボカ

 と、ほとんど述語だけで喧嘩にまで発展できるわけである(こうやって見ると、反抗期の中学生は親に対して日本語コミュニケーションの基本部分だけを使っていることがわかる)。しかしまあ、述語だけではやはり限界もあって、話題(文法用語では主題)がずーっと同じになってしまう(上の例では話題は「おれ」か「おまえ」である)。それでは困るので、「いいか、おれは今から話題を変えてこのことについて話すからな」とか「いいか、おれは今このことについて話してるんだからな。間違えんなよ」と話題を指し示したいときに使うのが「は」である。

「(あなたは)食べた?」
「食べた」
「アリスは食べた?」
「食べた」

 これはおれの補足だが、「は」はあくまで話題を指し示すのであって、いわゆる主語にばかり使うわけではない。次の例のうち、下のほうの例では英語でいう目的語にあたるものに「は」を使っている。目的語を話題として示すためだ。

おれは鳥を食べた。
鳥はおれが食べた。

 じゃあ、「が」は何かと言うと、それまでの会話の中で知られていない人・物事など、「誰が」「何が」を示さないと話になんない場合がある。そういうときに使うのが「が」だ。

「誰が鳥を食べた?」
「アリスが食べた」

 Tae Kimさんは、「が」を「主語」の助詞と呼ぶのはぞっとしない、"indentifier"の助詞と読んだらどうか、と言っている。アイデンティファイという英語はなかなか日本語に直しにくいが、それをやったのが誰か・何かを同定するもの、はっきりさせるもの、というような感じだ。「同定の助詞」とか言い出すと、いきなり難しげに響いてしまうのでちょっとアレだが。

 以上がTae Kimさんの説明(のおれ流の解釈)。「は」は主題を表す助詞だという話は目新しいものではないし、「主語」か「同定」かは置いておいて「が」の機能についての説明も従来の文法的な説明から離れるものではないだろう。Tae kimさんの説明で重要なのは、日本語がもっぱら述語を中心とした言語であって、それに主題を示すための「は」やら、誰か・何かをはっきりさせる「が」やらを付加している、という視点だ。言語の成り立ち方がとてもわかりやすい説明だと思う。

 英語は主に語順で言葉と言葉の関係を指し示すので("I ate it."なら「主語 述語 目的語」)、おそらくその文にまつわる全ての言葉を出さないと意味が通じないのだろう。日本語の場合は助詞があるので必要な言葉だけを出せば意味が通じる。主題(何について話しているのか)を相手にわからせる必要があるときは「は」を、行動や状態の主体を相手にわからせる必要があるときは「が」を使うようになった、と、そういうことなんだろうと思う。日本語と同じく助詞を使って言葉と言葉の関係を指し示す朝鮮語ではどうなのだろう。やっぱり、日本語のごとく(最低限)必要な言葉だけを使うのだろうか。