あいまいな日本の言い回し

 タイトル、芸のないもじりで申し訳ない。

 木下是雄の「理科系の作文技術」に、日本文学者ドナルド・キーンの次のような文章が引用してある。孫引きになってしまうが、ご勘弁いただきたい。

「鮮明でない言葉はフランス語ではない」という言葉があるが、日本語の場合、「はっきりした表現は日本語ではない」といえるのではないか。……数年前に日本人に手紙を出したが、その中に「五日間病気でした」と書いたので、友人は「日本語として正確すぎる」と言って「五日ほど」と直してくれた。小説の人物の年齢も多くの場合、「二十六、七歳」となっていて、二十六歳とも二十七歳ともはっきり定められないようである。……


(木下是雄「理科系の作文技術」、中公新書より。原典は、ドナルド・キーン「日本語のむずかしさ」、梅棹・永井編「私の外国語」、中公新書所収)

 まったくドナルド・キーンの言う通りで、「五日間病気でした」という表現は間違いではないが、少なくともわたしは違和感を覚える。

 この日記でも時折書いてきたが、日本語で物を書くとき、あるいは語るとき、どういうわけだか物事をぼかすクセがわしら(――とは、日本語表現にどっぷり浸っている人々、くらいの意味)にはあるようだ。

 居酒屋に数人で入って店の人に「とりあえずビール、2、3本」と注文するのもそうだし(店の人も心得ていて、適当に対処してくれる)、会社なんかに休暇を申請するときも「一週間ほど休みをいただきたいのですが」などと言う。

 数ばかりではなくて、言葉の端々もぼかす。すでにここまで書いてきたわたしの文章にも「次のような文章」、「どっぷり浸っている人々、くらいの意味」、「あるようだ。」、「会社なんかに」、「などと言う。」と、ぼかすような表現が混じっている。ドナルド・キーンだって、先の引用文中で「いえるのではないか。」、「はっきり定められないようである。」という表現を使っていて、もし彼がこの文章を英語で書いたらそんな表現はしないのではないか。知らんけど。

 もちろん、あいまいな言い回しを批判しているわけではない。そういうクセみたいなものがあることを(あ、これも怪しい)、興味深く思うだけである。