続・品種改良

 犬は、オオカミが家畜化したものだという。


 こんな犬も、こんな犬も、元はオオカミだったというのだ。
 人間のやることは、全く乱暴というか、凄じい。


 ここから先は、例によって、思いつきで書き飛ばすので、一切、信用していただきたくないのだが、例えば、こういう犬


 何を考えて、ここまでにしたのだろうか。
「毛、長え」、「もっと長くしたろ」、「こっちの長いのと一緒にしたら、もっと長えのが生まれんじゃねーの」、と、そんなふうに代々、交配されてきたんじゃなかろうか。


 あるいは、こういう犬


「全体に、こう、長っぽそくね」、「何つーの、もっと節っぽくさ」と、そんなたくらみが代々、続けられてきたんじゃないか。


 いや、まあ、犬には実用面もあるから、そればかりでもなかろうけれども、それぞれの犬種には交配のコンセプトがある。その最先端が、今、我々が目にする犬、というわけだ。


 わたしは元々、犬の血統書というものを、ケッ、と思っていた。この偉大なわたしにすら血統書がないのに、犬のくせに、なんだ! おれにだってチンチンくらいできるゾ!! と思っていたのだ。
 あるいは、「雑種」という言い方に見下した視線を感じて、「エラソーにしやがって」とエラソーにブーイングしていた。


 しかし、こう考えてくると、血統書は大きな意味を持っている。


 あれは、人間が犬を改造するコンセプトを維持するための、道具なのだ。
 毛むくじゃらの犬の子孫は毛むくじゃらのままに。あるいは、もっと毛むくじゃらに。
 長っぽそい犬の子孫は長っぽそいままに。あるいは、もっと長っぽそく。


 血統書を持った同じ種類の犬を掛け合わせることで、さらに優れた、あるいは面白い、変テコな犬を作り出せる(かもしれない)。


 血統書を用いた交配は、代々の犬方面の人々が抱いてきた改造のコンセプト、犬の見方、考え方、使い方、面白がり方を受け継いで、少しずつ改造していく、というやり方だ。


 これは保守の手法である。
 多くの人の、何となくの了解(このタイプの犬は「使える」とか、「美しい」とか、「かわいい」とか、「面白い」とか)と無視(「いらない」)の中で、タイプが淘汰されていく。同じ品種同士で交配する価値があると判断されたものだけが残っていく。


 一方、遺伝子工学を使って犬を改造するやり方が出てきたら(もう出てきたのかな?)、これは革新の手法だ。根本、構造を直接いじって、どっかーん、という方法だからである。


「犬」を「考え方」や「物の見方、感じ方」に置き変えれば、そのまま、政治や歴史における保守と革新の違いになる。


 わっはっは。デタラメを書き飛ばしているうちに、犬の品種改良から、歴史と政治の本質にまで踏み込む、という凄いことになってしまった。成り行きとは恐ろしい。


 おれには、血統書がないだけだ。


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