理屈というのは便利な道具で、割に愛用している。
しかし、理屈自体はいい道具なのだが、使う側の人間がヘマをしたり、乱暴に扱ったり、極端に走ったりするので、最近はほどほどに付き合うくらいがいい、と考えるようになった。
あるいは、理屈の上を行く理屈というのもあって、そういうふうになってくると、なかなかわたしの手には負えない。
進化論というのは、一応、科学の縄張りに入るのだろうが、あれは証明があまりできないところが弱みであるらしい。
つまり、理屈では成り立っても、酸素と水素を合体させると、ほら、水ができましたね、というような具合にはいかないようなのだ。
これはわたしの好きな話なのだが、たとえば、魚の化石をずらりと並べて、「ほら、これこの通り、順を追って形態が変わり、最後はホッケになりました」という説明はできる。
ところが、キリスト教の創世神話を力強く肯定する人に言わせれば、「いやいや、それは主が七日間でこの世界をお作りになったとき、○万年前のホッケの先祖っぽい化石として用意されたのだ」ということになる。
つまり、神様がブン、と杖を振ったかどうかは知らないけれども、化石は最初から化石としてこの世に現れた、というわけだ。なるほど、理屈である。
この理屈をひっくり返すのは、たぶん、難しいよ。銭形平次だって、このかけてもつれた謎を解くことはできまい。
キリスト教と進化論というのは、ダーウィンの時代からいろいろ複雑にこんがらがっているようだ。キリスト教の信者によっても、考え方はいろいろなようである。
しからば、仏教と進化論というのは、どういうからまり方になるのだろうか。
わたしは信者と呼べるほどではないが、仏教的な考え方は割と性に合う。ただし、きちんとした知識があるわけではない。
どうなのだろう。仏教の立場からすると、進化論については「諦めなさい」ということになるのだろうか。
いや、「諦めなさい」といっても、わたしが日々繰り返しているような「あー、やっぱ、無理だわ、おれには」という「諦め」とは違う(らしい)。
「そういうふうになっているのだから、ジタバタするな」、あるいは「考えてどうなるものでもないから、もっと日々の心構えや行いのほうを大事にしなさい」ということなのかもしれない。
これではどうも、対決にならない。とっとと諦めましょう。
神道と進化論、となると、どうなるのか。ますますもってわからない。
神道にも創世神話はあるから、突き詰めれば進化論と相容れないところもありそうだ。しかし、論争になった、という話は聞かない。
とりあえず、世界にはいろんな神様がいらっしゃって、まあ、いろいろだ、と、それで終わってしまうのだろうか。
あまり、そのへんのややこしいところはいいじゃないか、とりあえず畏んでおきなさい、というのが一般的な神道の態度なのかもしれない。知らんけど。