存在感の薄い人、というのがいるもので、例えば、高校の同窓会で、「アイツ、何だっけ、名前? えーと」なんていう話になったりする。
でもって、全員、思い出せないままに、別の話題に移って、捨て置かれるのだ。
さらに悲劇的に存在感が薄い人になると、みんなが必死に名前を思い出そうとしているとき、実はその後ろにぼうっと立っている。
今さら輪にも加わりにくく、そーっと息をしているのだ。しかも、「僕の名前、何だっけ?」と考えている。
とりあえず、めげずに、生きていっていただきたい。
あるいは、これを読んでいる方の職場にも、そういう人はいるかもしれない。いることはいるのだが、さほど気にされない人。ハタから見ると、ついでに生きているみたいに見える人。
そういう人を「存在感が薄い人」と呼ぶのは、ちょっと可哀想だ。これからは「透明感のある人」と呼んであげたらどうだろう。
「透明感のある人」は存在が曖昧なのだが、わたしは名前が曖昧だ。よく間違われる。
姓は「稲本」だが、「稲垣さん」とか、「山本さん」としばしば呼ばれる。
そういうとき、訂正すべきかどうか、ちょっと迷う。
いちいち、「稲本です」と言うのも自意識過剰みたいだ(自意識過剰を気にすること自体、自意識過剰なのだが)。
かといって、うっちゃっておくと、その後、ずっと「稲垣さん」、「山本さん」と呼ばれ続けることになる。
まあ、「稲垣さん」でも「山本さん」でも実用上問題はないので、たいていはそのままにしておく。「稲垣さん」、「ハイ」で用は足りる。
ただ、3人以上の打ち合わせか何かだと、別の人が困った顔をすることがある。
その人はその人なりに、「『稲本さん』と呼ぶと、間違ったことを間接的に指摘するみたいだしなあ。嫌味に聞こえないかなあ」とか、「本人が『稲垣さん』でうっちゃっているんだから、わざわざ私が訂正することもないかも」とか、「でも、そうすると、私もずっと『稲垣さん』と呼ばなきゃいけないし」などと、逡巡しているのだろう。申し訳ない。
郵便物などは「稲元」と書かれて来ることもある。まあ、これについてはちゃんと届いているわけだし、どうでもよい。
下の名前は「喜則」と書く。割と珍しい書き方だと思う。
Googleで「喜則」と検索すると、この日記が最初に表示される。ある意味、わたしは日本で一番メジャーな喜則なのだ。ワッハッハ。別にうれしかないが。
この名前は、父が「喜んで規則を守るように」という変態的な理由で名づけたものだ。ヨッパラっていたに違いない、と睨んでいる。
こちらも書き方をよく間違われる。多いのは善則、芳則だ。正答率は70%くらいである。
面倒くさいので、いっそ、「稲垣善則」に改名してしまおうかと考えている。