自分を重ね合わせる

 どういう理由によるのかはわからないけれど、人間はやたらと他人と自分を重ね合わせるクセがあるようだ。


 たとえば、共感、もらい泣き、というのは、他人と自分を重ね合わせることで起きるのだと思う。


 あるいは、子供は、よく自分にとってのヒーロー(ヒロイン)の真似事をする。
 好きなバッターのフォームを真似たり、歌手の動きを真似たり、というのも、重ね合わせの一種だろう。単なるモノマネではなく、もう意識まで完全になりきる場合が多い。
 モノマネとどこが違うかというと、モノマネは他人の視線を意識している。一方、なりきる場合は、他人の視線があるかどうかはどちらでもよくて、自分の世界に浸っている。イチロー小野伸二松浦亜弥の生き霊が憑くのである。


 大人が赤ちゃんに話しかけるときというのが、面白い。
 普通に話せばいいものを、どういうわけか、「ナニナニちゃんでちゅかあ。今日はご機嫌でちゅねえ。うれちいでちゅねえ」と、圧倒的に、でちゅねえ的態度になるのだ。あれも重ね合わせだろうと思う。


 親しくなるまで外国人に対してよそよそしい態度をとりがちになるのは、相手の価値観や行動基準がよくわからず、自分を重ね合わせにくいからかもしれない。


 あるいは、異常な犯罪を犯した者は悪魔的に扱われる。もちろん、その犯行の酷さの故もある。しかし、それだけじゃなくて、相手の心持ちというものに自分を重ね合わせられないせいもあるんじゃないか。猟奇的犯罪の犯人が、「ケダモノ」、「人間じゃない」と言われるのも、そう考えると納得できる。


 で、逆に、どういうわけか、「人間じゃない」ケダモノに、人間はしばしば自分を重ね合わせる。
 テレビでやっている動物番組には、その手のものが多い。卵を産みながら涙を流すウミガメにもらい泣きしたり(いや、そんなやついるのかな。が、まあ、結構、グッと来る人はいるだろう)、群れから離れた狼にふと自分の姿を見出して、「フッ」とニヒルな微笑を浮かべたりするのである。


 しかし、まあ、あんまりやりすぎるのはどうかとも思う。ウミガメにはウミガメ的世界の捉え方があり、狼には狼的世界の捉え方があるだろうからだ。それらは、おそらく人間には理解できない部分が多いだろう。
 人間的世界の捉え方を押しつけすぎるのは、相手に失礼であり(というのが既に人間的世界の捉え方の押しつけなのだけれども)、動物との関係を誤ったものにしかねないと思う。


 時々、たとえば、「イヌワシは○○を訴えている」という類の言い回しを見かけるけれども、本当に訴えているのかどうか。人間の物の見方にすり替えているんじゃないかとも、思う。


 えーと、イヌワシの保護に反対しているわけではなくて、一回、自分のやり口というものを客観視してみても悪くない、ということです。比喩は比喩とわかっておいたほうがいい。


 逆の話もあって、粉体力学、つまり、粉の動きを研究している学者は、人間の群れを粉として捉えるらしい。たとえば、ラッシュアワーの人の流れを粉の流れと見ると、どこでたまって、どこで流れ始めるか、ということが予想できるのだそうだ。


 これは面白い。いろんな学者にどんどんやってもらいたいと思う。


 ロボットの研究者は人間をロボットとして捉えてほしいし、気象学者は人間関係の摩擦を梅雨、寒冷、温暖など、各種前線で捉えてほしい。たまに、大型で強い台風的人物も現れる。
 原子力の研究者はブームやパニックの発生を核分裂の視点で捉えてほしいし、ゴキブリの研究者は人間をゴキブリと見なしてほしい。
 人類学者は人間を人類として捉えてもらいたい。当たり前か。


 ともあれ、重ね合わせ、というのは、個人のふるまいとか、集団内のリクツとかを理解するうえで、なかなか面白い視点なんじゃないか。
 とっくにそういう見方をしている人が、たくさんいるのかもしんないけど。


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