見聞きするたびに釈然としないものがいろいろとある。
一番は自分の顔で、鏡を見る度に釈然としない心持ちになるのだが、それはまあよい。
人の比喩に、デジタル、アナログを使うケースをよく見かける。デジタル人間、アナログ人間、「私はアナログですから……」、「あいつらは物の考え方がデジタルだからさ」、云々、かんぬん。
大ざっぱにまとめると、デジタル、アナログ、それぞれからの連想は次のようなところではないか。
デジタル 0と1、イエス/ノー、明快、冷たい、新世代、ドライ、不人情、正確、非協調的、頭が切れる
アナログ 曖昧、温かい、旧世代、ノスタルジー、ウェット、情、不正確、協調的、最終的にはうまくいく
イメージの根っこにはこういうエンベロープがあるんじゃないか。
デジタル
アナログ
まあ、比喩だからあまりうるさいことを言い過ぎるのもアレなんだが(という書き方はアナログなのかしらん)、しかし、どうも物事の捉え方が短絡的に過ぎるように思うのである。
デジタルの印象の根本にある「0と1」なんていうのは、マイクロプロセッサーのそのまた根本の成り立ちのところまで行けばそういう処理を行っているらしい(詳しいことはシランケンシュタイン)。が、それはあまりにマイクロな部分であって、わたしらの見える/聞ける部分まで来ると、デジタルによるものもアナログによるものも精妙だ。CDで聞くモーツァルトは別にカクカクしていない。世界中のエンジニアがよってたかって築きあげてきたテクノロジーというものを、ぞんざいに考えては失礼である。
若い世代だからデジタル、上の世代だからアナログ、なんていう分け方ともなると、こじつけも甚だしいと思う。人間の判断や割り切りのイエスかノーかなんて、デジタル技術とは何の関係もない(太平洋戦争中のシンガポールで「イエス・オア・ノー」とやった山下泰文中将は、デジタルだったのだろうか?)。若い世代には今ひとつなじめない、という感覚を別の話にすりかえているだけだろう。あるいは、イメージに酔っているのか。
何というか、マイクロプロセッサー・レベルの0と1が人間の行動に反映するんなら、原子で成り立っている我々は、原子核である胴体のまわりを電子である両腕がぐるんぐるん回ったっておかしくない、と思うのである。