通ぶる

 ここのところ、この日記で落語について書くことが多い。私の中で、春からずっと落語ブームが続いているからだ。


 20代の後半頃にも、一度、落語ブームになったことがある。というより、当時は志ん生ブームであった。
 もちろん、あくまで私の中で、である。世の中が志ん生ブームになって、猫も杓子も、ついでに女子高生までが「志ん生の『唐茄子屋政談』、聞いた? いいのよねえ、あの、若旦那が転んじゃって、通りすがりの職人さんに唐茄子買ってもらうところ」などとウキャウキャ会話していたわけではない。


 その頃は、カセットテープをちびちび買っては聞いていた。あまりお金もなかったし、大枚はたいてCD全集を買うまでには至らなかった。


 今もお金があるわけではないが、CD全集を買い揃えるくらいはできるようになった。


 せいぜい、名人といわれる人達の噺を聞いて楽しんでいる程度だから、初心者である。
 それでも、いろんな人のいろんな噺を聞いていると、性分なのか、ああだこうだと書きたくなる。
 そうして、書いたものを後で読み直すと、なんだか、通ぶっているようで、嫌味な文章が多い。落語の「酢豆腐」みたいな具合だ。


 これ、私に限ったことではない。
 私の場合は、初心者のくせに知ったふうなことを書くから、通ぶって見えるのはトーゼンの助動詞だ。
 ところが、他のサイトで落語について書かれた文章を読んでも、やっぱり、通ぶって見えることが多い。
 これはどうしたことか。


 映画でも、小説でも、音楽でも、人はいろいろと書きたがるもので、もしかしたら、百八つの煩悩のどれかに当てはまるのかもしれない。そうした文章にも通ぶって嫌味に見えるものはある。
 しかし、落語について書いたもの、特に噺家の個性ややり口について書いたものは、非常に通ぶって見えやすい。「通ぶり率」が相当高いのだ。


 通ぶり率、嫌味率の高さは、落語について書いたものと、料理の味や工夫について書いたもの(ただし、プロの作った料理に限る)が双璧かもしれない。


 なぜなのかは、よくわからない。技芸というものに関係するからかな。


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