ケツをまくる

「ケツまくって逃げる」という言い回しがある。江戸時代の町人が、走るとき、着物を尻からげにしたところから来た表現なのだろう。

 洋装が普通になった現代では、なかなか実行しにくい格好である。

 男がケツをまくって逃げようとするとズボンをおろさねばならず、そのまま変態および警察方面に直行である。

「水着の女性がケツまくって逃げる」はどうか。大変に面白い光景であるには違いないが、これまた公序良俗の問題がある。

「寒空の下、帰宅途中の制服姿の女子高生たちがケツまくって逃げた」。壮観である。青春である。

 おれは、そこに夕日が差してほしいと願っている。

 

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「夕焼け」 (c) Σ64

 

人間の構成

 おれは過敏性腸症候群アトピーを患っていて、どちらもなかなか思いにまかせぬものである。過敏性腸症候群は自律神経系統の、アトピーはもっぱら免疫系統の不調から来る。おれの一生は腹痛と痒みとの戦いであると言っても過言ではない。いわゆるQOLのかなり低い人生を送ってきた。
 そういう毎日を送っているからこそわかることというのもあって、人間は脳、特に大脳を中心にしていると思いがちだけれども決してそんなことはない。むしろ、大脳、中脳、小脳と、自律神経系統、そして免疫系の融合というか、連立関係、同盟関係が人間の正体ではないかと思うのだ。お互いに直接の連絡はなく、体の状況を通じての間接的な連携が中心である。
 あくまで同盟関係だから、しばしば対立に陥ることもあり、心身方面の不都合、ストレスというのはもっぱらそこからくるとおれは考えている。
 病弱ゆえにおれはそういう理解に達したのだが、まあ、そんなことわからなくてもいいから、下痢せず、痒くない人生のほうがよかったな。

大阪弁を翻訳する

 昔、ひさうちみちおの漫画に大阪弁を東京言葉に変えるというのがあって、大笑いした覚えがある。たとえば、映画の喧嘩のシーンでよく出てくる「お前ら、なんぼのモンじゃい!」を東京言葉に直すと「君たち、いくらのものなんだい?」になるんだそうだ。

 テレビの影響か、今は東京の日常会話でも大阪弁(もどき)がしばしば混じる。おれも「知らんわ」とか、「ちゃう(違う)」とか、意識せずに使っていることがある。大阪弁はもはや日本の第二言語、あるいは第二共通語と言っていいくらいだと思う。

 大阪弁を仮に無理やり訳したら(共通語や東京言葉に変えたら)どうなるか、というのが今日のお題だ。テキストは中場利一の「カオル ちゃーん!! ~ 岸和田少年 愚連隊 不死鳥篇〜」である(岸和田は大阪弁の中でも泉州弁という独特の「濃い」言語を使う土地である)。

 まずは原文。

「コラ、ダレが自衛隊やねん、年が足らんわい」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラすんなボケ! 殺すど!」

「殺してみんかい」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、ワレなめてたらアカンど。ワレひとりと、こんなヘーのプーみたいなガキ二人で、オレに勝てるとでも思てんかい」

 訳文。

「オイ、ダレが自衛隊だ、年が足らないだろ」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラするな馬鹿野郎! 殺すぞ!」

「殺してみろよ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、お前なめんなよ。お前ひとりと、こんなオナラぶーみたいなガキ二人で、オレに勝てるとでも思ってんのか」

 東京言葉に変えただけで、見えてくる光景が全然違ってくる。

 いっそ、キザな東京言葉にしてみよう。

「おい、誰が自衛隊だい、年が足らないじゃん」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラするなよばか! 殺すよ!」

「殺してみなよ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってあげた。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、君はなめたらいけないね。君ひとりと、こんなおならの音色みたいなお子たち二人で、僕に勝てるとでも思ってるのかい」

 なぜか尻がナヨナヨな感じになった。

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 なお、「じゃん」は本来、横浜の言葉らしい。戦後のジャズブームかグループサウンズの頃に音楽関係者や不良を通じて、東京に輸入されたのかもしれない。

 東京の下町言葉(というか、東京落語言葉)だとどうなるだろう。

「おぅ、ダレが自衛隊でぃ、年が足らねェよぅ」

 しかし定は帰してはくれない。女にモテないから、女づれだとよけいに突っかかってくる。

「チャラチャラすんじゃねェ馬鹿野郎! 殺すぞ!」

「おぅ、殺してみねェ」

 肩をつかんできたので振り向き様に裏拳で一発、顔面を殴ってやった。グッ……と定は鼻を両手で押さえ、下がった。

「定、テメェなめたらいけねェよ。テメェしとりと、こんなおならブーみてェなガキ二人で、オレに勝てっとでも思ってんのけェ」

 しかしまあ、同じ日本語の中でもこれだけニュアンスが違うのだ。外国の小説を翻訳で読むとき、あるいは映画で字幕を見るとき、わしらはどのくらい、ニュアンスを理解できているのだろうか。

岸和田少年愚連隊 不死鳥篇 カオルちゃーん!!

岸和田少年愚連隊 不死鳥篇 カオルちゃーん!!

相撲マフィア

 大相撲で感心するのは、数年ごとに大騒ぎを起こしては沈静化し、忘れた頃にまた大騒ぎを起こすことだ。

 日馬富士貴ノ岩への暴行事件に端を発し、貴乃花日本相撲協会を退職するまでの流れはある意味、見事だった。あれよあれよ、という間に思いがけぬ方向へと事態が動きながら、日本の相撲のいろいろな側面をざっくりした斬り傷のように見せてくれた。

 中でも圧巻は、日本相撲協会が突如繰り出した「親方は五つの一門のいずれかに所属しなければならない」という規定だ。その結果、貴乃花親方は否が応でも日本相撲協会を退職せざるを得なくなった。

 英語で「一門」を何と呼ぶかというと、family、ファミリーだそうだ。もうひとつ、clan、クランという言い方もあるが、これは一般には馴染みのない言葉だろう。

 日本相撲協会の規定を英語に読み替えると、「ボスは五つのファミリーのいずれかに所属しなければならない」。まるでゴッドファーザーの世界である。

 コッポラ監督の70年代の映画「ゴッドファーザー」にはいくつも印象的なシーンがあったが、そのひとつはニューヨークの・フィアの五大ファミリーが一堂に会する会議だった。

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 映画「ゴッドファーザー」の公開当時(1972年)、アメリカの一般市民はこのようなマフィアの存在を信じられなかったとも聞く。大相撲の「一門」なるものも、貴乃花親方の退職騒動が起きるまで日本の一般市民がほとんど知らないものだった。

  大相撲の五代ファミリーとは:

・ニショノセキ・ファミリー

・デワノウミ・ファミリー

トキツカゼ・ファミリー

タカサゴ・ファミリー

・イセガハマ・ファミリー

 互選による束ね役(現代風に理事長と呼ばれる)には八角ボス(あだ名はオクタゴン)が選ばれた。

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果たしてうまく五大ファミリーを束ねられるか。八角親方 a.k.a. オクタゴン

 

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大相撲の五大ファミリー会議、通称「理事会」。

 

 Wikipediaで大相撲の「一門」の項を見ると、こんなことが書いてある。

公益財団法人に改組された現在でも日本相撲協会の人事、とりわけ理事の選出は一門の枠組みで決定されている。

(中略)

協会からは毎年、各一門へ助成金が支給され、さらに一門の責任者が所属する各部屋に分配している。

一門 (相撲) - Wikipedia

 暴力団の「一家」の仕組みを思わせる(もっとも、相手を張ったり、突いたり、投げたり、はたいたり、と大相撲は文字通り暴力の団ではある)。大相撲は擬似的な大家族制度だから、ヤクザの組織や問題解決方法に似たところがあるのだろう。「親方」も「親分」もファミリーの「親」である。

  日本相撲協会については、あんな問題ばかり起こす団体を公益財団法人にしておいていいのか、という議論もあると聞く。まあ、前近代の仕組みを現代の法律システムに当てはめようとするから、どうしたって無理が出る。よくも悪くも、お相撲さんの世界は現代のファンタジーだ。

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かつての大ボス、北の湖親方

人間相対性理論

 人の悪口を言うのは楽しい。古今亭志ん朝も「人の悪口を言いながら酒を飲むほど楽しいことはありませんナ」と言っている。

 しかしーーこれをお読みの方の周囲にもいると思うのだがーーやたらと悪口を言う人もいて、げんなりすることがある。手当たり次第というか、当たるを幸いに悪く言う。曰く、「稲本は偉そうなこと言っても、自分では行動しない」「何様のつもりか」「口だけだ」「口が臭い」「腹が出てきた」「自分の行動をコントロールできないのだ」「頭が悪い」「屁をこく」「それがまた臭い」,etc.。

 理由は人それぞれにあるのだろうが、ひとつには、人を引きずり下ろしたり、蹴落としたりすると、相対的に自分の位置が高くなった心持ちになれる、ということがあるのだと思う。悪口言われた人はもちろん悪口言われているなど、気づかない。相手の知らないところで悪口言って、己の立場を相対的に高める(心持ちになる)のだから、なかなかの卑怯者である。これをイナモトの特殊人間相対性理論と名付けよう。

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 引きずろ下ろし・蹴落としの中には、有名な人、成功した人が失敗するとしめしめとばかりにバッシングするという行為もある。他人の不倫話や離婚話をしかめ面ながら実はヨロコんで語るのも(ネットや週刊誌はイナモトの特殊人間相対性理論の統計的な証明である)、そういう心理の表れなのだろう。

 さらに視点を引いて見てみると、人間集団の間にも同じようなことがある。一般に日本では欧米崇拝というのがまだまだあって、たとえば、広告や雑誌の表紙に英語をすらっと入れただけでカッコよく感じてしまう。「海外」というと、もっぱら欧米のこと(だけ)だったりする。負けてたまるかニッポン男児。そういう態度をとってしまう自分たちが悔しいのか、欧米のあれこれを悪く言う人もいて、「あいつらには侘び寂びや風流というものがわからない」的な乱暴な話が飛び出す。引きずろ下ろしの典型的な例である。ミネストローネスープと味噌汁のどっちが美味いか議論したってしょうがないと思うのだが。

 一方で、特に中国・韓国に対する悪口雑言が聞くに堪えぬこともある。ヘイトスピーチというのは、多分に相手の集団を蹴落とすことで己達を相対的に高く感じるための手段ではないか。いわゆるネトウヨと言われる人たちの行為には、ある人間集団をひとくくりにして、引きずり下ろし/蹴落とし、己達を相対的に高い位置に置いたような心持ちになりたい、というものが多いように思う。

 これをイナモトの一般人間相対性理論と名付けたい。

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 アインシュタイン先生、すみません。

だけ派の人々

 誰が書いていたのか忘れたが、おれの好きな話にこんなのがある。

 その人が「複雑系とは何なのだ。単純に言ってくれ」と知人に訊ねたら、「まあ、単純に言うと物事は複雑だ、ということだ」と答えたという。

 世の中のいろんな事柄というのはたいがい複雑なものだが、「だけ派」とでも言うべき人々がいて、物事を単純に割り切って、それでヨシとしてしまう。たとえば、「男なんてやりたいだけ」とか、「役人は利権がほしいだけ」などと言う。あるいは、「人間、所詮は金」とか、「結局、みんな自分が大事なだけ」などと所詮派、結局派と呼びたくなる人々もいる。

 昔、国際線に乗ったとき、隣の席に座ったフランス人が、どうしてそんな話になったのか、世界情勢について「目を開け。単純に見てみろ。全てはアメリカの陰謀だ」と言い張るので、辟易したことがある。

 思うに陰謀論を支持する人にはだけ派の人が多いんじゃないか。なぜなら、陰謀論は「〜の陰謀が実はあって、ああなった(だけ)」という構図が多いからだ。

 名の売れた学者の中にもだけ派の人はいて、たとえば、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」なんかはだけ派の本じゃないかと思う。あれは、「結局、世界の歴史は銃・病原菌で動いてきた。勝者は銃・病原菌・鉄を味方につけた側だ」と言っている“だけ”の本ではなかろうか。

 嫌味な言い方で申し訳ないが、だけ派の人々は頭が単純なのか、あるいは考えるのが面倒くさいのではないか。自分にとって理解しにくいものを否定したり、ないことにして、理解しやすいものだけで結論してしまうのは愚かだと思う。その人の勝手ではあるけれども、はたから馬鹿に見えたり、時に品性が低く見えたりもする。

 おれもややこしいことが得意ではないが、「〜なだけ」と単純に割り切らないようにしている。割り切ってしまうと、そこで話が終わってしまうからだ。単純に割り切って結論を出してしまうのは、楽かもしれないが、つまらないし、もったいない。

 わからないことは「ここから先、おれにはわかっていない」と保留するようにおれはしている。そうすれば、何かの機会にその話題の新しいポイントや見方が出てきたとき、「ははあ。そういうこともあるのか」と理解や興味を増やせる(こともある)。馬鹿もほんのちょっとだけ賢くなれると思うのだが、どうか。

クロサワランド

 ふと出来心でディズニー映画の「パイレーツ・オブ・カリビアン」の二作目を見た。半分くらいまで頑張ったがついにノレず、見るのをやめてしまった。

 おれはディズニー映画と相性が悪く、あまり面白いと思ったことがない。冒頭の、ディズニーランドのお城みたいなモーションロゴを見た途端、「嘘とまやかしの国め!」とひとりごちてしまう。

 うんざりしながら見ている間に「クロサワランドを作れないか?」と考えた。映画史にその名を轟かす黒澤明監督作品のテーマパークである。

 映画関連のテーマパークといえば、京都の太秦映画村とか、あと世田谷の砧にも東宝のものがあったと思う。ああいう撮影セットっぽいものではなくて、ディズニーランド並みにどかんとお金をかけて、黒澤明作品で遊べるようにするのだ。

 入園口はもちろん羅生門である。

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 受付の京マチ子(女装束)と三船敏郎(盗人)の案内内容が食い違っていて、入園者はいきなり頭に?を百個くらい並べることになる。

 ディズニーランドの象徴、シンデレラ城にあたるのは蜘蛛の巣城である。中に入るとびゅんびゅん矢が飛んできて、命がけだ。

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 蜘蛛の巣城の横にはなぜか公園があって、志村喬が雪の中、ブランコを揺らしている。ディズニーランドと同じような山もあって、斜面でいかりや長介の鬼(「夢」)が悶え苦しんでいる。

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 ディズニーランドのエレクトリカルパレードにあたるのは同じく「夢」の狐の嫁入りだ。

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七人の侍」からはどのシーンがいいだろうか。ラストの野武士との決戦もいいが、おれとしては中盤の野武士の砦を推したい。平八(千秋実)に扮して、錯乱した百姓の利吉を救うために飛び出し(泣ける)、火縄銃で撃たれるのだ。

 ちなみに、矢で射られても、銃で撃たれても大丈夫。診療所で赤ひげが仏頂面で治療してくれるからである。

 さらに先に進むと、「天国と地獄」の横浜黄金町の麻薬窟に至る。麻薬中毒患者の菅井きんに「何さ、ジロジロ。おれたちゃ見せもんじゃねぇや!」と悪態をつかれる。

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 隣では「ブリキは燃えねえってんダヨ!」と焼却炉番のオッサン(藤原釜足)が怒鳴っている。米兵の集まる怪しげなバーでブギウギも踊れる。

 「用心棒」の町ではジャイアント馬場にそっくりの巨人(羅生門綱五郎)が暴れている。加東大介の着ぐるみに「お前ぇ、強いんだってな」と言うと、大喜びで踊りだす。

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クロサワランドのミッキーマウス

 前代未聞、空前絶後のテーマパークになること、間違いない。問題は黒澤監督であるからして、完璧主義に徹しなければならず、予算は倍増、工期ものびのびでいつ完成するやら、誰にもわからないことだ。