昭和歌謡曲を聴く〜アンコ椿は恋の花

昭和歌謡曲を聴く」第三弾は、都はるみの「アンコ椿は恋の花」を取り上げたい。
アンコ椿は恋の花」は都はるみがデビューした1964年の歌で、おれはまだ生まれていなかった。しかし、都はるみの代表曲のひとつだから、折にふれて耳にすることはあった。昭和の名曲、というより名歌唱のひとつだろう。
 1965年の映画「アンコ椿は恋の花」の中での都はるみの歌唱を聴いてみよう。

 このとき、都はるみ17歳。いやー、あきれるほど歌が上手い。中でも「〽あンこ〜、だよりィ〜はァ〜」の唸り節の凄さはどうだ。
 実は、都はるみの歌唱については随分昔に書いたことがある。

→ コラム・イナモト - 都はるみを微分する

 このときは、R&Bやソウルに似た歌い方があり、都はるみの唸り節はブルースやゴスペルの影響かも、と考えはした。しかし、ブルースやゴスペルと、都はるみの民謡調のつながりがわからず、偶然だろう、浪花節の唸りから来ていると考えたほうが自然なんじゃないか、と何となく結論づけた。
 ところが、先日、輪島裕介の「創られた『日本の心』神話〜『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」を読んでいたら、こんな一節に出くわした。

・・・都はるみの「唸り節」に関して興味深いのは、その歌唱技法が直接的に浪曲に由来するものではないということです。彼女は幼少時から母親の期待を背負って歌を習っていたのですが、ある時浪曲師上がりの漫才師、タイヘイ夢路の舞台を見た母が、娘の歌に個性を与えるために唸りを強調するように命じたのが発端です。
 本人の回想によれば、練習しても母のイメージするところを理解できず、当時ポピュラー歌手として人気絶頂であった弘田三枝子の歌い方を模倣することで、あの唸りを身につけたといいます。

 弘田三枝子を、おれは世代がずれていて、名前くらいしか知らなかった。ただ、作家の小林信彦が彼女の歌を聴いて、「戦後の17年は無駄ではなかった」と嘆じたと何かで読んだことがあった。元占領国アメリカからの音楽的影響のことを言っているのだろう。都はるみとアメリカをつなぐ線が出てきた。
 早速、弘田三枝子の歌唱を聴いてみた。1963年の紅白歌合戦より「悲しきハート」である。

 司会の江利チエミの「バンバーンとハッスルして!」というセリフにもなかなかシビレるものがあるが、それは今はよい。
 弘田三枝子の「♪ホォ〜オ、夜〜ごと〜ひとり泣いてい〜るの」というところ(1:05あたり)の唸り方は明らかに都はるみのそれと同じである。曲は民謡調ではなく、明らかにアメリカからの影響を受けている。これで、アメリカと都はるみがつながった。弘田三枝子を介して、都はるみはアメリカのポピュラー音楽、特に黒人歌謡の影響を受けたのだ。
 試しに、同時代のアメリカの女性ブルース歌手、ビッグ・ママ・ソーントンの歌を聴いてみよう。1965年の「Hound Dog」。

 出だしのパンチあるシャウトには、硬化させた喉に太く強い息をぶつけることで生まれる荒れがある。弘田三枝子、ひいては都はるみの唸りと同じ荒れだ。
 さらにズズッと時代をさかのぼる。1920年代から1930年代にかけて活躍した「ブルースの女帝」ベッシー・スミスの「Nobody Knows You When You're Down and Out」。

 都はるみと同じ唸りが随所に表れる。
 このブルースの唸りがどこまでさかのぼれるのかはわからない。直感的には、ブルースというより、元々はゴスペルのものだったのではないか、という気はする。なぜなら、この、わざと声を荒らすパワフルな歌い方は聴衆に対して効果を発するもので、畑仕事の前後や休みのときにギターをつま弾きながら歌うカントリー・ブルースにはあまりそぐわないように思うからだ。しかしまあ、証拠がないので、ホントはどうだったんだかおれにはこれ以上わからない。
 ともあれ、アメリカのブルースにあった唸りがポピュラー音楽を通じて弘田三枝子に受け継がれ、都はるみのあの唸る歌唱が生まれたのは間違いなさそうだ。時間と空間を渡り歩いたそのダイナミックな荒れ・唸りの伝承に、おれはちょっと感動した。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)