機械文明のありがたみを知る

 昨日、仕事の関係で千葉の成田に稲刈りに行ってきた。
 機械ではなく、鎌による手苅りである。仕事上のちょっとした趣旨から手狩りの大変さを知る目的があった。農場の方も「四十年ぶりですよ」とおっしゃっていた。
 やってみると大変である。まず田んぼの泥に足がずぼずぼとめり込み、抜けない。これだけで体力を使う。おそらく体重も関係しているのだろう。おれは最近太ってきて、ということは「重り」が体に埋まっているということだから、当然ながら重りを動かす分、運動エネルギーも余計に使わねばならない。
 めり込んだまま体の方向を変えようとするとひっくり返る。苅った後の株に足を載せるとよい、と教わったのだが、素人にはなかなか要領よくできない。株に載せようとして踏み損ない、ずぼずぼ。リカバリーしようと逆の足を踏みしめるとそっちもずぼずぼ。往生した。

仮説1 デブと泥田は相性が悪い。

 苅っているとずっと中腰なので、腰が痛くなった。今日もまだ痛い。というか、もっと痛くなってきた。考えてみれば、昔の稲作というのは田植えで中腰、稲刈りで中腰であり、一連のプロセスの山場ごとに腰に来る。稲よ。君の穂の低さを恨みました。
 一反半ほどの田んぼをおだがけ(→こういうやつ)するまでに、素人が十数人がかりで一日かかった。農場の方の話だと、昔は一日で一反苅る人もいて、八割方まで苅れようになると「あいつも一人前になってきた」と言われたそうだ。
 おれは元々汗かきで、ここ数年で異常と言っていいほどにひどくなってきた。自律神経が壊れているのだろう。稲刈りをすると汗腺が壊れたように汗が出た。タオルでぬぐいぬぐいするうちに、こすれて顔が赤くなった。情けないが、エアコンと扇風機が恋しくなった。いやはや、つくづく労働に向かない男である。

仮説2 汗かきは農作業に向かない。

 実際に手で苅ってみると、農業機械の凄さ、ありがたみがよくわかる。何せ、人が汗をぬぐいながらちびちび苅っていくところを、一気にガーーーーである。
 広げて考えてみれば、おれのような壊れている、工業製品ならリコール対象になりそうな、というか出荷段階の検品でハネられそうな人間がそれなりに調子の整った状態でいられるのも、エアコンだの扇風機だのの機械のおかげである。よく戦前は、あるいは江戸時代はよかったみたいな話をする人がいるが、おそらく、おれみたいな人間が昭和二十年代以前に生まれていたら、簡単に病死していたろう。

仮説3 機械文明は適者以外(というか、おれ)の生存率を向上する。

 機械文明バンザイ。どうぞこのまま。