こだわりと味

 前回、あれこれこだわる割に不味い天婦羅屋について書いた。
 その天ぷらのアゲたくなるような不味さを思い出しつつ(オエオエ)、そもそもなぜ「こだわりの店」なるものがもてはやされるのか考えてみた。
 三秒ほど虚空をにらんで出てきた答えは「競争市場のせい」というものであった。
 いきなり凄いものが飛び出しておれも驚いたが、皆さんも驚いたろう。もっとも、内容はあまり大したことはない。
 競争市場、すなわち今の日本の世の中だが、ここでは基本的に他を差し置いても自分のところの商品を買ってもらわねば暮らしが立ちゆかない。で、いろいろなものの中から選べる状態で自分のところの商品を買ってもらうには、ま、いくつか手はあるけれども、最も有効とされる方法は「他との違いを出す」ということだ。いわゆる差別化というヤツですね。
「すなわち、競争市場の中で他との違いを出して自分のところで食べてもらうために料理屋がこだわり始めるのだ」というのはしかし、ちょっと簡単すぎる。たぶん、その手前に番組や記事なんかの話があると思う。
 料理というのは実際に食えばともかく、写真や文章で紹介するときにはなかなか他との違いを表現しにくい。それはそうで、料理はいろんな試みの結果、うまく作るための方法、まずくしないための方法、きれいに見せるための方法がある程度定式化している。レシピなんていうのはそうした取捨選択の積み重ねの結果なんだろう。うまくやる方法がある程度定式化しているから、舌で感じる微細な味の違いはともかく、出来上がりの見た目や盛りつけ方なんかは似通ってくる。これが番組や記事を作る側からすると困るのだ。
 番組や記事を作る側は、その番組なり記事なりを他を差し置いても買ってもらわないといけない。「あそこの天ぷらはうまかった」だけでは他の番組なり記事なりと差がつかないし、単調になってしまうから、視聴者なり読者なりの興味を上手に引くように店や料理を紹介することを考える。でもって、他との微妙な味の違いや見た目の違いを伝えるのは知恵とテクニックが必要な割には効果が心もとないから、もっと言葉で表しやすい「こだわり」なんていうものに注目してみせるのだろう(他には「人」とか「物語」に注目してみる手もある)。「こだわり」は他の店と違う部分として紹介されるから何かよきもののように見えてくるし、また番組や記事の作り手側はそう見せようとする。で、そうした番組なり記事なりがダバダバ積み重なった果てに、「こだわりの何たら」がまるで素晴らしいことのように勘違いされるようになったのだろう。
 しかしまあ、素に戻ってみると、食べるものに「こだわり」なんて必要なんだろうか。料理というのは、音楽や絵画のような自己表現である必要はないとおれは思う。下手に自己流にこだわるよりかは、これまで非常に多くの人が試し、取捨選択し、その結果「こうするとよい」となった積み重ねの結果をきちんと再現したほうがうまい料理はできるだろうし、食うほうだって満足しやすいだろう。もちろん、自己表現するのは各人の勝手だが、基本的には積み重ねの結果の再現がきちんとできるようになってからにしたほうがいいんじゃないかと思う。天才でない限り。
(あ、音楽や絵画も必ずしも自己表現である必要はないか。分野と、その分野でプロに求められるものによりますね)