何の問題についてでも金切り声をあげる人というのがいて、困ったものだと思うのである。
平和運動、差別、教育、格差、性差、環境問題、税金、原発方面とテーマはいろいろだが、キィーーーーとなる。当然同調の声以外には聞く耳を持たないから、扱いに困る。怒っている人は口を開いて目を閉じる、というやつで、目をつむって刃物を振り回すがごとくだから迷惑このうえない。
まあ、面倒なのでおれはたいがい青空を見上げることにしているのだが、問題は、まわりが面倒だな―、と放っておいているうちに金切り声の勢いに押されてしまう場合があることだ。たとえば放送禁止用語というのは、金切り声と対処する面倒くささのゆえに放送局が自己規制をかけているのだと思う。放送禁止用語だけでなく、たとえばおれが使っている日本語変換ソフトは「はくち」をまともに変換してくれない(おれとしては自分について形容できないから困るのだ)。こういうのも金切り声に対する防御の結果であって、結果的には金切り声の勝利なのではないか。だだっ子が物をせしめるのに似ている。
モンティ・パイソンのジョン・クリーズが何かで「笑いについて自己規制をあんまりすると、世の中が神経質な人の常識に塗り込められてしまう。みんな楽しめなくなる」と言っていたが、その他の事柄についても同じことが言える。
金切り声をあげている人にはその他のことが見えていないし、そもそも見る気がないんだろうから、困ったものだと思う。放っておけばいいのかしらんが、そうすると金切り声は勝手に勝ったと思ったりするらしいからますます困る。