聖なる人々

 少し前に「裸の大将放浪記」について書いた。といっても、随分とくだらない内容であったが……。

裸の大将放浪記」は山下清画伯がモデルになっている。ただし、相当脚色されているらしい。

 山下清画伯が亡くなったのは1971年だから、現代の人と呼んでもいい。「裸の大将放浪記」は現代の伝承・伝説・昔話(現代の昔話というのも変だが)であり、目の前で伝承・伝説・昔話が形づくられていく過程を、我々は体験したとも言える。

 実在の山下清画伯はともかく、「裸の大将放浪記」のほうの山下清は、何やら神様のごとくだった。ふらりと現れ、ふらりと去っていく、なんていうところも、日本の神様っぽい(そういえば、寅さんもそうだ。あの人物も今では一種神格化されている)。

 一見愚に見える人物が実は聖なる人物だった、というのでは、仙台四郎もそうだ。仙台四郎は、明治期の仙台に実在した人物で、山下清画伯と同じく知的障害者だった。言葉はほとんど話せず、仙台の町をふらふら歩き回って、いつもニコニコしていた。仙台四郎が立ち寄る店は必ず繁盛したので、今でも仙台の町には仙台四郎の写真や置物を店先に飾っている店があると聞く。その最期ははっきりせず、いつのまにか仙台からいなくなってしまったらしい。そんなところも神様っぽい。

→ 仙台四郎安置の寺・三瀧山不動院

 仙台四郎の写真を見ると、山下清画伯――というより、足や癌の助、じゃない(何という変換だ)、芦屋雁之助が演じた裸の大将の印象に似ている。顔がどうこうではなく、服がはだけ、肉付きがよく、にこやかで邪気のなさそうなところが共通しているように思う。

 さらにずっとずっと遡ると、布袋様も似ている。布袋様は元々、中国・唐代の乞食坊主で、やはり放浪したらしい。何をしたという事跡もないが、死後、弥勒菩薩の化身とされ、画題として好まれ、日本では七福神のひとりに数えられるようになった。生前、特殊な印象を残す人物ではあったのだろう。

 絵や像に表される布袋様も小太りで、半裸で、笑っている。そういう人物に聖なるものを見る感覚が、東洋には伝わっているのかもしれない。もしかすると、裸の大将や仙台四郎の原型は、布袋様だろうか。布袋様のしょっている大きな袋が裸の大将のリュックに変わったと見ることもでき、代々、人から人に伝わっていく感覚というのは面白いものだと思うのである。