優れているから愛しているのか

 例の田母神論文を読んでいないし、あまり興味もわかない。


 ただ、その言動から察する、物事の捉え方にちょっとひっかかるところはある。田母神氏に限らず、しばしば他の人にも感じることなのだが。


 日本はいい国だから愛するのだろうか、ということである。


 敷衍すると、我々は何かを、優れているから愛するのか。


 そういうケースもあるだろう。
 例えば、アスリートは優秀だから愛される、ことはある。高性能のクルマが、その性能のゆえに愛されることもある。しかし、そればっかりではないだろうと思う。


 おそらく、たいていの人が、家族や友人、恋人、愛人について、優れているから愛しているわけではないだろう。
 しょうがないなー、などと思いつつ、愛していることが多いんではないか。


 わたしのことについて言うと、日本のいろいろなものが好きである。
 芸能や書画骨董の類に限らない。例えば、何の変哲もないコンクリートの電柱や、トタン屋根の小屋の風景、「ルネサンス西馬込」なんていうアパート名なんかも、ある種の哀しさを伴いつつ、懐かしいような心持ちになる。


 別にコンクリートの電柱やトタン屋根の小屋や「ルネサンス西馬込」というネーミングが優れているとは思わない。慣れ親しんで、愛情のようなものを覚えてしまっただけである。



「ああ、アタシ、この木、好き!」


 ひさしぶりにご登場いただきました。


 日本を愛せよ、という話になると、日本はこんなところが優れている、こんな優れた人がいた、なんていうことを言い出す人達がいる。身も蓋もない言い方をすると、お国自慢である。


 それは、優れているから愛しているわけではなく、実は自分が愛しているものを優れていると思いたいのだろう。
 子どもが自分の父親はいかに優れているか自慢したり、もうちょっと年がいって家柄を自慢したりするようなものではないか。


 別にそういう心の働きを否定はしないが、ちょっとひっかかる。もっぱら、同じように感じたい人達が、内輪で気持ちよくなるだけだろう。


 もちろん、優れた何かがある国だから好きになる、ということはある。しかし、それは、その国についてまだ馴染みきっていないうちに起きることだと思う。


 国を愛するということに関して、日本はコレコレこの通り優れている、という類の話を聞くと、女子中学生がスポーツ万能の男子に憧れるんじゃないからさー、と思う。
 優れていない、ということになったら、愛さなくなるのだろうか。


 わたしは、家族や友人について、慣れ親しんでしまい、離れがたい気持ちを抱いている。別に彼ら彼女らが優れているからそう感じるわけではない。日本についても(ちょっと漠然としているが)同じように感じている。


 愛情というのはいろいろな形で覚えるようになるものなので、いちがいには言えないが、優れているから愛する、というだけの捉え方は、単純すぎるように思う。