わたしは書店で本を買ったとき、カバーをかけてもらうことがある。
別に強いて、というわけではなく、レジに列ができておらず、相手の作業がさっさとカバーかけに進んでいたら、「断るほどでもないな」と、そのまま待っている。ああ、流れゆく私。
まあ、カバーの効用もないことはない。電車の中で本を読むとき、あまり書名を晒したくない場合もある。
コムズカシイ本を読むとき――例えば、「資本論」を読むとすると(実際にはまず読むことはないだろうが)、分不相応なので、書名を隠したくなる。
逆に、あまりにくだらない本や――「オッパイ・モミモミ、うふんの夜」とか――内容に賛同できない本を読むときも、いやいや、書名で判断してくださるな、とカバーをかけたくなる。
自意識過剰と言うほかなく、面目ない。
電車の中で暇なときに、向かいに座っている人を、読んでいる本でどういう人であろうかと想像してみることもある。
松平春嶽についての本を熱心に読んでいるおじさんがいたら司馬な人であろうかとか、「特急なんとか殺人事件」を読んでいるスーツ姿の人がいたらこれから出張に行くのであろうかとか、考える。
もちろん、暇つぶしの遊びであって、たまたま読んでいる本で、人を判断できるわけがない。
まあ、平塚らいてうと上野千鶴子とイプセン「人形の家」を鎌目になって読んでいる、チェ・ゲバラのTシャツを着た女性がいたら、とりあえず一定の距離を保っておいたほうが無難かな、と思う程度である。
読んでいる本で人を判断するというのは、先入観と、決めつけ好きのゆえだろう。
昨日、電車に乗っていたら、はす向かいに座っているおばさんが、吉川英治の「三国志」を読んでいた。
別におばさんが「三国志」を読んだってかまわないのだが、ちょっと奇異な光景ではある。
「三国志」はオノコノコの本だという先入観と、おばさんかくあるべし、という決めつけがあって、奇異に感じたのだろう。
おばさんがどういう興味や成り行きで「三国志」を読んでいたのかは、もちろん、わからない。
ちょっとだけ、おばさんの内面を覗いてみたい気がした。
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「今日の嘘八百」
嘘七百九十二 数学は理屈ではない。