惰眠、ああ、そが甘き患いよ。
などと、フランス詩の日本語訳みたいな書き出しをしてしまったが、惰眠、いいものだと思う。
惰眠は、世間的にはあまり評判がよくない。それは「惰」の字を見ればわかる。
遊惰、惰弱、怠惰、惰性、怯惰と、「惰」のつく言葉にロクなものはない。わたしのためにあるような字ではないか、とも思うのだが、それはまあ、よい。
あるいは、「惰眠を貪る」なんていうふうにも言うから、己を律するという観点からすると、駄目の三乗くらいだろう。
しかし、惰眠はいい。
わたしが思うに、惰眠の真骨頂は惰の部分にある。
夢も見ぬような熟睡というのは、あまりいい惰眠ではない。
夢かうつつか、夢が八分にうつつが二分くらいがいい惰眠である。
つと、いったん目覚めて、“ああ、ああ、あ〜”とまた眠りに落ちていく、ぼんやりと夢のようなものを見た気がする、そのほあほあとした時間が惰眠の惰、真骨頂だろう。
惰眠を貪れる、すなわち、つと目覚めて、“あ、起きなきゃ”などと思わずにいられるというのは、ある意味、ひとつの人間の理想ではないかと思う。
まあ、言ってしまえば、駄目の喜びですね。
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「今日の嘘八百」
嘘七百六十七 財務省の残業に、ついに労働基準局のメスが入る。