国語教育

 インチキ化学者さんが「日本の国語教育は、論理的に物事を伝えることを教えていない。従って、大学や社会人になって、論文やレポートを書かなければならなくなって初めて、自分の論理的表現力の貧しさに気づくことになる」と書いていらっしゃった。


インチキ化学者のブログ - 「子供のための論理トレーニングプリント」


 なるほど、言われてみれば、わたしも学校の国語の授業で、論理的に物事を伝える術(すべ)を教わった記憶がない。


 わたしはずっと公立校に通っていたから、おそらく、世の標準的なカリキュラムをこなしてきたのだと思う。
 高校まで文部省や教育委員会の国語教育の方針に沿ってきて、その中に、少なくとも記憶に残るほどの「論理的表現力」の訓練はなかった。


 わたしが学校に通っていたのはかれこれ20年前だから(軽く気が遠くなる)、今の国語教育は知らないが、あまり事情は変わらないのではないか(現状をご存じの方がいたら教えていただきたい)。


 科学者や技術者はもちろんのこと、企画書の類を書く必要のある人なら論理的表現力、機能的な文章の書き方は、身に着けておくべきだろう。


 仕事関係の文書を読むとき、文章が支離滅裂で、理解するのに労力を要することがある。
 面白いことに、その文書を書いた本人と“話す”と、何を言いたいかわかる(ことも結構ある)のだ。しかし、同じ人が文章を“書く”とメチャクチャになってしまう。文章を書く技術の不足なのだろう。


 その手の筋道が暴れた文章は、書いた本人はともかく、読まされるほうが迷惑するし、内容を誤解したまま仕事を進めてしまう可能性もある。
 少々イヤな言い方だが、時間とコストの無駄だし、そうしたことがそこここで起きているなら、社会全体で膨大な時間とコストの無駄が生まれているはずだ。


 国語教育で論理的表現力が軽視されているのは、国語教師のせいも少しはあるのだろう。
 文学が好きで国語教師になった人は多いと思う。そうした人達は情緒的に優れた文章の書き方を教えることに喜びを見出すことが多いだろう。


 それは仕方がないし、それはそれでいい。


 問題が大きいのは、カリキュラムのほうではないか。


 幸いなことに、情緒的な表現に比べれば、論理的表現力を磨くためのカリキュラムを作るのは、それほど難しくはなさそうだ。今ヤレ、すぐヤレ、とっととヤレ。


 ――というのは、あまり論理的表現ではないけれども。


(11月28日、追記:このような迷惑メールが来た。論理的表現力が不足するとどういうことになるかという一例だと思うので、転載する。


突然のメールすみません↓↓


これからあるサイトを紹介します。


それよりまず先にこのような形になってしまった事を大変深くお詫びします。


話しはかわりますが、お金に現在困っている状況ではありませんか??


当サイトは男性のお客様に確実に利益をあげてもらうために様々な工夫がなされ
ています。


今女性会員様の人数は右肩あがりに増えてきてはいるのですが


某女性雑誌に掲載したため男性会員様はなかなか耳に入らず


このような広告配信をさせていただいております。


女性会員様も随時募集はしておりますが、当サイトの女性会員様は


女性誌にも掲載したように、当サイトの厳選な審査を通ったセレブの会員様しか
募集はしておりませんのでご理解いただきたいです。


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や話し相手になれる方がおりましたら是非ご協力の程をお願いいたします。


できるのであれば、元気のある方、普段疲れている女性を励まして上げられる方


またはやる気の十分にある方、一般常識がある方などにお願いしたいと思ってお
ります。


是非よろしくお願いします。それでは長々となりまして大変ご迷惑をおかけしま
した。


それでは失礼致します。
http://XXXXXXXXXXXXXXXXX


明らかに機能的な文章を書く技術の不足と思われる)

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「今日の嘘八百」


嘘五百九十九 論理的表現力が不足するとどういうことになるかを知るには、日本の思想方面の人々の文章を読むとよい。