「芋の子を洗うようだ」という言い回しがある。
夏にプールが混んでいたり(あれ、衛生的にどうなのか)、今はあまりないだろうが、銭湯が混んでいたりするときに使う。
しかし、ワタクシ、かれこれ40年、日数にして15,000日ばかり生きているが(軽く気が遠くなるね)、いまだかつて芋の子を洗ったことがない。芋の子を誰かが洗っているところも見たことがない。
一方で、プールが混んでいて、「この人達はもしかして肌をくっつけあいに来ているのではなかろうか?」と思うような光景は、写真も含めれば、結構、目にしたことがある。
してみると、夏のプールの混み具合を「芋の子を洗うようだ」と表現するよりも、今後、幸運にも芋の子を洗う光景を目にできたとき、「夏のプールで肌と肌をにゅるにゅる合わせるようだ」と表現したほうが適切なのではなかろうか。
その洗った芋の子、あんまり食べたくないが……。
「絹を裂くような悲鳴」という言い回しもある。
これまた、ワタクシ、かれこれ40年、日数にして15,000日ばかり生きているが(立ちくらみしてきました)、布を裂いたことはあっても絹を裂いたことはない。そんな贅沢な育ち方はしなかった。
絹を裂くと、どんな音がするのだろう。ピリピリピリッ、という感じだろうか。
暴漢に襲われた女性が絹を裂くような悲鳴をあげた。
「ピリピリピリッ!」
どうもうまくない。
勢いよく裂けば、シャーッ、という音がしそうだが、
暴漢に襲われた女性が絹を裂くような悲鳴をあげた。
「シャーッ!」
蛇が威嚇してんじゃないんだから。
わたしらは、自分で言葉やイメージを操っているように思い込んでいるけれども、その実、自動的な反応で言葉を吐き出しているケースも、案外、多いんじゃなかろうか。
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「今日の嘘八百」
嘘五百七十七 「まっ裸の大将放浪記」というのもあって、なまじリュックを背負っているだけ、出会った人達は困った心持ちになるらしい。