日常と歌・続

 昨日の続き。昔の人は――といっても、いつ頃の人達のことなのか、よくわからぬのだが――和歌を、「作品」として作るというより、もっと当たり前のこととしてやっていたのではないか、という話。


 今の時代、和歌はあまり流行らない。皇室方面を別とすれば、もっぱら、一部の好事家達のものになってしまっている。
「歌道」とかいうものが確立して、あれやこれやと五月蠅いことを言い出したから、面倒くさいものになってしまったんではないか――というのがまあ、わたしの、いささかヨコシマな見方である。


 ゲージツである、なんぞという考えは捨てて、もっと日常的に五七五七七で物を言ったらどうか、と思うのだ。


  しゃらくせえ鼻持ちならぬやつばらは
    トゲトゲ道で勝手に迷いな


 ひどいもんだが、とりあえずこんなのでいいのだ。数打ちゃ当たる。かもわかんない。


 なお、「鼻(花)」と「ばら」、「原」と「道」を引っかけてみました。


 たぶん、こういうことというのは、急に始めてもなかなかうまくいかない。ガキの頃から五七五七七で物を言う癖をつけておくといいのではないか。


  うんちしておならがブーブー出ちゃったよ
    おならロケット飛ぶけどくさい


「うんち」、「おなら」、「チッコ」、「おしり」というのは、どういうわけだか知らないが、ガキどもの異常な関心を呼ぶ。
 その心を素直に詠めばいいのである。


 小学校に上がると、先生とのやりとりも五七五七七になる。


  おはようさん今日は九九から始めましょう
    二の段おぼえてきましたか


  ねえ先生九九もいいけど下を見よ
    チャックがばっちり開いてます


  これはだね社会の窓です君たちも
    やがて飛び出す時の来るなり


 なにを飛び出すかは、いろいろに考えられるけれども。
 そのいろいろが歌の余韻につながるのである。自分で書いていて、相当、強引だが。


 そんなこんなで光陰矢の如し。小学校の卒業文集に「サッカーの選手になりたい大工でも いいけどニートはちょっといやかも」などと書いていた少年少女達も、やがては会社勤めするようになる。そうして、「一応、出といて」と言われた長ーい会議で、あくびを我慢する羽目に陥るのだ。


  あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
    長々しきは部長の話


  秋過ぎて部長の頂き眺むれば
    枯れ葉散るらん神は往にけり*1


  枯れ葉かれ僕らは僕ら携帯に
    かけてよ会議抜けだしませんか*2


  天かける電波に乗りて君がため
    夕べせまりて虫ぞ鳴くらん*3


 そんなメモをこっそりやりとりして、それぞれ携帯に緊急の連絡があったふりして会議室を抜け出し、夕闇の街へとまぎれていく男女の姿があったという。

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「今日の嘘八百」


嘘四百四十一 生涯現役、生涯スランプ。


*1:「秋過ぎて」に「飽き過ぎて」を利かしてある。「神」と「髪」。

*2:前の歌を「枯れ葉」で受けている。「枯れ葉かれ」、「彼は彼」を利かしてある。

*3:前の歌の「かけてよ」を「天かける」で受けた。携帯電話を虫に擬している。「夕べせまりて」に女性からのそれとない誘いを読みとることもできよう。