山田風太郎のインタビュー集「風々院風々風々居士」(聞き手:森まゆみ、ちくま文庫、ISBN:4480420959)を読んでいたら、こんな一節があった。
山田 (稲本註:自分の墓は)ああ、どうでもいいんだけどね。しかし散骨するちゅうわけにもいかんしね。やる方の人が後味わるいぜ。どっかにバラまくっちゅうの。
ま、確かに、である。
自分の骨ならまだしも、「この人の骨は撒いてこれからどうなるのだろう?」と考えると、引っかかりそうだ。
遺族としても、船だの、飛行機だのに乗ってわざわざどこかに行くのは面倒くさいだろう。
散骨というのは、故人のいささか身勝手な希望ではある。
完全に葬儀屋に任せてしまう、どこかに持っていってもらう、という方法もあるようだが、もし自分が遺族なら、それも何だか半端な気持ちになりそうだ。
わたしは特に信心しているわけでもなく、自分が死んだ後の骨なんざ、知ったこっちゃないといえば知ったこっちゃない。
どこかに撒いてもらったって構わないように思うのだが、一方で、「じゃあ、養殖ウナギの餌にでもしますか」と言われると、ちょっと嫌な気もする。
あの絡み合い、ボールのようになって餌を争うウナギに、自分の骨の粉が食われるかと思うと、んんんー、だ。
海に撒いたって、魚に食われるのだろうに。こういう感じ方は不思議だ。
死んだ後の骨も、やっぱり、自分のように思うからかね。
大自然のほうの天然ウナギはいいけど、養殖ウナギはちょっと――というのも、ま、変な話である。
自分の骨のことを考えると、何だかわからなくなってくる。
あれかね、結局、自分っていったい何なのか、よくわからないからかね。自分のことなのに。いや、自分だからこそ、か。
ここで言ってる自分ってのは、自分探しとか、本当の自分とか、そんな安い自分のことじゃないぜよ。蛇足でごわすが。
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「今日の嘘八百」
嘘三百四十九 私は、焼くより、いっそ煮てもらいたい。