高田純次のテキトーさはハデで要領のよいテキトーさ(の素晴らしさ)だが、こいる師匠のテキトーさは型に従って流すテキトーさ(の素晴らしさ)だ。
この、「型に従って」というところがポイントで、仕事なんかでも、とりあえず謝っておく、謝っておけばいい、というときがあるでしょう。「こうしときゃあ、とりあえず収まるもんだ」、「ま、相づち打っときゃいいや」という型、パターン。
あれを過激に押し進めると、こいる師匠の芸になる。
だから、こいる師匠を笑うとき、我々は、とりあえず謝っておいたり、相づち打っておいたりする自分を笑っているのだ。
ンー、だんだん芸論チックになってきたな。すごいぞ、おれ。
ま、目の前に昭和のいるこいる師匠が出てきたら、ンなことはどうだってよくなるんだけどね。はいはいはいはいはい。
もうひとつ、昭和のいるこいる師匠が素晴らしいのは、話の中味、何について語るか、なんてどうでもいいところだ。
あれほど内容の乏しい掛け合いというのも珍しい。ネタと呼んでいいのかどうかさえ、迷う。
わたしは時々、会話も文章も、イカした型さえあれば、内容なんて大していらないんじゃないか、と考えることがある。
昭和のいるこいる師匠はそれを実践している。
ま、だからどうだってこともないんだけどサ。
人徳だネ。
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「今日の嘘八百」
嘘三百三十八 こいる師匠があるとき、自分探しの旅に出た。最後に見つけた本当の自分が、あれだった。