鼻持ちならなさ

 例えば、Amazonの「J.S.バッハ・カタログ」のページに、こんな感想を書いた人がいる。


「もしバッハの音楽がなかったとしたら…」という質問を想定してみましょう。その答えは、「クラシック音楽のみならず、すべての音楽が無に帰してしまうのでは…」という恐れが生じてしまいます。まさに「すべての音楽はバッハに始まり、バッハに帰る」と言われる所以です。


 ロケンロールでソウルフルでスウィンギーで以下略のおれとしては、こういう言い様を聴くと、「なに言いやがる」とむかっ腹が立つのである。


 バッハがいなかったら、何と呼ぶのか知らんがラビシャンカールみたいなインド音楽や、もっとよく知らないがアフリカの伝統音楽はなかったのか。小唄はバッハに始まり、バッハに帰るのか。


バロック前から古典派、ロマン派、現代音楽、またジャズやポピュラーやロックにいたるまで、四声(ソプラノ・テノール・アルト・バス)の内にある音楽をすべて呑み込んでしまうほどの要素がバッハの音楽にはあります。内容的にも技法的にも、まさにバッハこそ“音楽の父”と言ってよいでしょう。


 そんじゃあ、バッハは“都々逸の父”か。まるで西洋音楽が音楽の全てであるかのような言い草じゃあないか。
 バッハを“音楽の父”と呼ぶのは西洋音楽の傲慢であり、他の音楽に対して失礼だと思う。


 だいたい、誇らしげに書いているけれども、おまえはバッハの親戚か何かか?!


 とまあ、そんなふうにつっかかるのは、もっぱらおれがひねくれているからである。
 しかし、今、引用したような類の文を読んで鼻持ちならないと感じ、バッハなり、クラシックなりを聴かず嫌いになる人間も、案外、多いと思うのだ。


「こっち」と「あっち」に分かれてしまい、「こっち」の人間は「あっち」には近寄らないようになる。


 これはもったいないことである。