これからの日本画

 日本画の修練というのは、油絵のそれとはまた違った大変さがあるようで、Aさんは「あれは直せないからねえ」と言っていた。


 油絵では、キャンバスに絵の具を塗り重ねていく。失敗しても、乾いてから上に新たな絵の具を重ねれば、まあ、何とかなる。


 しかし、日本画は筆の運び、勢いを楽しむ、というところが大きい。基本的に一発勝負だ。


 襖に向かって、気合い一閃、ヤッ!と筆をふるって、「あやっ?!」となったら取り返しがつかない。
 まあ、せいぜい、その失敗したところを元に、別の絵を描いていくしかないだろう。


 このヤッ!なりチョチョッなり、取り返しのつかない筆の運びを学ぶのが日本画の修練で、ビビってはダメなのである。
 というか、ビビったらビビった線になるだけだ。


 そうして、キビしく技を修練して、ある程度、筆をふるえるようになって――描く場がないのだ。


「もったいないですよねえ」
 と、わたしが言うと、Aさん、
「グラフィティアートはどうかな?」


 笑った。


 10年ほど前からか、日本でもスプレー缶で、建物にカラフルでポップな文字を描くイタズラが増えた。ヒップホップ文化と関係あるのだろうか。


 Aさんは、あれを日本画でやったらいい、と言うのだ。
「グラフィティアートなのに、日本画でさ。完璧な花鳥風月の世界」


 スプレー缶も一発勝負だ。筆と同じく、始点や終点の独特な形、かすれや飛び散りがある。それらを絵に活かしてしまう。日本画によく見られる発想である。


 シャッターに「梅に鶯」、ビルとビルの間に「竹林の虎」、ガード下に「洞窟で修行する達磨大師」。


 おもろいなあ。誰か、腕に覚えのある日本画の人、やってみてくれないか。


 こういうのは、できれば行政やら、ゼネコンやら、なんたらコーディネーターやらに絡んでほしくない。「都市のパースペクティヴをアートで変える」とか、そんなのはもう結構。


 夜な夜な鼠小僧ばりに、見事な謎のスプレー缶日本画があちこちに描かれる。そういうのがいい。


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「今日の嘘八百」


嘘二百三十七 「○めぐる □□年の 逃げ口上」を辞世の句に決めておきます。わたしが死んだとき、○に季節を、□□にそのときの年齢を入れてください。