風物詩

 高校野球を見ていて思ったのだが、試合後の球児達を見る我々の視線というのは、もうほとんど花見や紅葉狩りと同じなのではないか。


「お、泣いとる、泣いとる」
「いい泣きぶりですねえ」
「こっちも泣いとる」
「あら、すごい泣き方。怖いようですわ。あっちはまだちょっと早いかも」
「八分がた、泣いとるんだがなあ」
「でも、泣きそうで泣いてないというのもまた、風情がありますねえ。わたしは号泣より、ああいう、ちょっと泣きかかったくらいのほうが好きかもしれません」
「そうだなあ。いやあ、今年はいい甲子園だった」


 とまあ、ひとりひとりの泣きぶりを見てまわる、という点では、花見や紅葉狩りより、梅見に近いかもしれない(ところで、なぜ紅葉は狩るのに、花見や梅見は狩らないのかね?)。


 王朝の昔に甲子園があったら、きっと歌枕としてよく詠みこまれたろう。


 源氏物語なら、須磨に配流された光源氏が、そう遠くもないことだし、甲子園に観戦に行く。
 そうして、例によって、都に残した人のことを思い出しては、哀しい、哀しいと袖を濡らすのだ。


  いつとなく都の人の恋しさに
    バット振りにしけふも来にけり*1


 かの時代のやんごとなき人々、夜這いをしては泣きながら歌を詠んでばかりいたようである。


 現代に戻って、テレビカメラもそういう機微をわかっているから、カメラワークも「泣き」中心である。


 おそらく、カメラマンは、


「あそこ、いい泣き。お、こっちも。ずーっとパンして。あ、キャプテン泣いてねえじゃん。泣け、泣け。早く。いつまでもお前だけ映してらんないんだから。……おーし、泣いた。泣いた。ひとしずくだけ。ん〜、おいしいねえ。あいつはわかってる。ん? エースの野郎は泣いてねえな。ま、これはこれでいいやな。最後まで全力で投げ抜いた、さわやかな表情ってやつだ」


 などと、限られた時間の中、職人技とある種の「読み」を駆使して、球児達の心象風景を、勝手に描き出していくのだろう。


 そして、またひとつ、夏が終わった。


▲一番上の日記へ

                  • -


嘘二百二十 王子様から口づけされた眠りの森の美女が、セクハラで訴えた。

*1:自分はいつということはなく、始終都に残した人が恋しいのに、昔、自慢のバットを振り回して遊んだその日さえ巡ってきたことよ。