ま、松山のことは放っておいて。
以前から、テレビなどでドラマにするときの坊っちゃんとマドンナの描き方に疑問を持っている。
テレビなどでドラマ化するとき、坊っちゃんはたいてい無鉄砲な好漢に描かれる。
しかし、小説を読むと、無鉄砲は無鉄砲だが、実際にこんなやつがいたら付き合いにくいだろうなあ、と思う。短気で短慮で辛辣で、相手を慮るということがない。
小説は坊っちゃんの一人称で書かれているから勘違いしがちだが、決して、痛快な人物ではない。
坊っちゃんは東京に帰った後、街鉄の技手になったそうだ。おそらくは偏屈な人物として、まわりから煙たがられる一生を送ったことだろう。
マドンナについては、ドラマではスポットライトを当てすぎる。
まあ、小説の中に美人といえば彼女しか出てこないから、ついそうしたくなるのだろうけど。
小説のほうのマドンナは、ストーリー上、重要な位置にはある。しかし、いわば、「そういう人がいる」ということが重要なのであって、マドンナ本人についてはほとんど書かれていない。
数えたわけではないが、「坊っちゃん」の中でマドンナが登場するページは数ページしかないんじゃないか。坊っちゃんの心証も(他の登場人物達と平等に)悪い。
もちろん、小説とドラマは別物だ。ドラマは小説「坊っちゃん」からキャラクターと大筋を表面的に借りているだけなのだろう。松山と同じく、それはそれ、これはこれ、なのかもしれない。
小説のほうの坊っちゃんや脇役達を、ドラマとしてそのまま客観的に描いたら、イヤーな感じのドラマに仕上がると思う。
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「今日の嘘八百」
嘘百三十 人生とは理想的行動のNG集である。